「仁義なき戦い」雑記帖(其ノ三)~日下部五朗『シネマの極道』をめぐって

二0一三年「仁義なき戦い」四十周年に合わせるように日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』(新潮社)が刊行された。全五部作の企画製作は第一部のみ俊藤浩滋藤純子、現、富司純子の父君)、日下部五朗の連名で、あとは日下部五朗プロデュースであり、その人が語る「仁義なき戦い」だから興味津々で、じっさい面白くてグイグイ頁を繰った。

氏が早稲田を出て東映に入社したのが一九五七年(昭和三十二年)、その当時の撮影所の光景や社風は「満映の残党をはじめ、寄せ集めで、ごった煮で、混成部隊で、他社でレッドパージにあった共産党員もいれば右翼もいるオールカマーな会社」「そっちでアジ演説をぶっているかと思えば、こっちには倶利迦羅紋紋を背負った方々が花札を引いていた」「よく言えば清濁併せ呑む映画共和国であり、悪く言えば無思想で不定見ではちゃめちゃ、正直なところは『儲かりゃええ』という、ま、しごくアケスケな会社」というものだった。

この社風は「『共産党も何党もあるかい、わしらは大日本映画党や。ドロボーでも何でも、映画が好きなやつはわしンとこへ来い』とのたまう満映帰りのマキノ光雄専務に端を発し、のちに岡田茂へと受け継がれた」のだった。そのマキノは満場のパーティで原節子をつかまえ「節っちゃん、いつになったら、やらしてくれるんだよ」などとカマしていた。後継の岡田茂社長は広島出身で「仁義なき戦い」の広島弁はこの人が脚本にケチをつけるときの口調そのものだったそうだ。

以下、『シネマの極道』にある、わたしが着目した「仁義なき戦い」をめぐる二、三の事柄。

(1)小林旭が演じた武田明のモデルは服部武共政会二代目会長で、プロデューサーの日下部と脚本の笠原和夫の二人はじかに服部と会って話を聞いている。それが原作者で広能昌三のモデルだった美能幸三に伝わると、美能は「こんなは服部にも会うとるじゃろ。原作、服部に書いて貰え」といささか不機嫌だった。そのため第四部「頂上作戦」で武田と広能が「一年半と七年か・・・・・・間尺に合わん仕事をしたのう」「昌三、辛抱せいや」「おう、そっちもの」と交わすラストの名場面は何がなんでも服部、美能双方のメンツを立てなければならなかった。あのシークエンスの誕生にはそうした緊張が潜んでいた。

(2)笠原和夫は、はじめの予定では、広能昌三役は松方弘樹で、菅原文太は松方の演じた坂井哲也役だったがシリーズ化を視野に入れて文太を射殺される坂井役から移したと回想している。いっぽう日下部五朗プロデューサーにこの記憶はない。たとえば石田伸也編著『蘇る!仁義なき戦い公開40年目の真実』(徳間書店)ではこの配役交替を定説のように扱っているけれど、そこまでは断言できないようだ。

(3)第二部「広島死闘篇」では北大路欣也の山中正治千葉真一の大友勝利がクローズアップされ、広能昌三の比重が下がったために菅原文太が「こんなに小さい役になったんじゃ出ない」とゴネたこともあったとか。しかし広能を中心とする広島抗争は第三部以降に予定されていたから日下部プロデューサーは不思議でならず菅原文太のほうもすぐに発言を撤回したという。これには「あれは俊藤さんが文太に言わせたんだよ」と解説する向きもある。微妙な問題だから以下に日下部本から引用しておく。

「当時の文太は、鶴さんや健さんと同じで俊藤さんが仕切っている俳優だった。そして、『仁義なき戦い』ではわたしと俊藤さんが二人で企画に名を連ねているが、第二部『広島死闘篇』からはわたし単独の企画になる。これは、そもそものきっかけから交渉、実現までわたしが完全に仕切っているのだから、俊藤さんにも文句はなかった。俊藤さんが絡まないやくざ映画の流れが生まれたのは事実だけれど、それで彼が嫉妬に駆られて文太に出演辞退を言わせたというのは、十八歳も年齢が違い、立場も違いすぎる当時のわたしには信じ難かった。文ちゃんにしても、いくら俊藤さんに言われたからって、俳優が自分を大スターに押し上げてくれた当り役を拒否し通すはずもなかった。」

この「事件」についてはすでに『映画脚本家笠原和夫 昭和の劇』(太田出版)のなかで笠原が「俊藤さんがこのシリーズを壊そうとした」と明言している。同書には笠原と文太との激しいやりとりもしるされている。深作欽二は文太抜きでやる決心までしていた。けっきょく菅原文太は出演し、俊藤のもとを去った。日下部プロデューサーに「あれは俊藤さんが文太に言わせたんだよ」と解説したのは笠原だったかもしれない。