「牛泥棒」

五月二十日にNHKBSPで「牛泥棒」の放送があり、十年ほど前にレンタルショップで借りて以来の再会ができました。

太平洋戦争のさなか一九四三年の作品でわが国では劇場公開されていません。わたしがこの作品を知ったのは若き日のクリント・イーストウッドが感銘を受けたと何かで読んだのがきっかけで、それまでは題名さえ聞いたことがありませんでした。といっても米国では重んじられており第十六回アカデミー賞で作品賞にノミネートされ、一九九八年にはアメリカ国立フィルム登録簿にリストアップされました。同登録簿はアメリカ合衆国の「国立フィルム保存委員会」が半永久的な保存を推奨している映画・動画作品のリストです。

ほかにも本作のウィリアム・A・ウェルマン監督について、スティーヴン・スピルバーグがもっとも好きな監督としてその名前をあげ、またサミュエル・フラーはいままでに観た最高の西部劇と評価しています。

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一八八五年ネバダ州のある町で、牧場主が殺され、牛が奪われたとの知らせが届きます。そのとき保安官は不在で、怒った町の男たちは副保安官を突き上げ、リンチを目的とした自警団を組織し、まもなく牛を連れ野宿していた三人の男を犯人として捕らえました。

自警団のうち七人は裁判を経ない私刑に反対したのですが多数派に押し切られ縛り首は実行されました。その直後、保安官がやって来て牧場主は生きていて、彼に危害を加えた犯人は逮捕したと知らせたのですがすでに悔恨が残るばかりでした。

縛り首に遭った一人ドナルド・マーティン(ダナ・アンドリュース)は家族への手紙を書き、それをリンチに反対した七人のひとりギル・カーター(ヘンリー・フォンダ)に預けてありました。そこには自分を処刑する者への非難はなく、人間の良心の尊さがしるされていました。

自警団を組織し、自らが信じる正義を振りかざし、しかるべき手続きも経ないまま、牛泥棒と断定した者を縛り首にする。ジャンルとしては西部劇なのですが、関東大震災を振り返るまでもなくここには人間と社会についての普遍的な問題があります。また太平洋戦争中の公開の背後には、戦時における正義の暴走とオーバーヒートという問題意識があったと推測されます。

われこそは正義の権化とまなじりを決し、こぶしを振り上げたとき、客観的に自身の姿を見るのは極めて困難になります。政治学者の京極純一先生によると「自分を見るには、鏡という人工の道具がいるが、他人は、そのままで、見られる。そして、卓抜な他人観察は、枕草子の昔から、女性の特技である」(『文明の作法』)のですから、とりわけ男性諸氏は正義を振りかざしての罵詈雑言や悲憤慷慨、勝手な思い込みに心しておかなければなりません。