クリスティー攻略作戦

 アンソニーホロヴィッツカササギ殺人事件』(創元推理文庫)を読み終えた。

この日曜日(三月三十一日)、喫茶店で朝食をとりながら読み、午後、NHK囲碁トーナメントの決勝戦井山裕太選手権者対一力遼八段のテレビ対局をたのしみ(一力遼八段が三度目の決勝戦で初優勝、井山が投了するシーンをはじめて見た)、それから午前とは別の喫茶店へ行き、一気読みでフィニッシュした。

 アンソニーホロヴィッツは「名探偵ポアロ」や「刑事フォイル」を手がけた脚本家で、『カササギ殺人事件』はヤングアダルト向け以外で書いた初のオリジナル・ミステリーとのことだが、脚本家の小説が上手くいくとは限らないなんて心配はまったく無用だった。

 一九五0年代なかばのイングランド。豪壮な貴族の屋敷の家政婦が電源コードに引っかかり階段から落ちて死亡する。事故か事件か決めかねているうち続いて当主の貴族が殺される。捜査にあたるのはエルキュール・ポアロを思わせる探偵アティカス・ピュントで、上巻の最後、解決寸前を迎えたところで小説は打ち切られ、そうして下巻を開いて登場人物の紹介を見ると、えっ、なんだ?!上巻のメンバーとは全然違っているのだ。

 つまり上巻はミステリー小説、下巻は上巻の本を上梓しようとする出版社の話になっていて、書きかけのまま所在がわからなくなった作者の行方、紛失した原稿の所在とそこにしるされた真犯人、原稿を持ち去った人物と動機といった何重もの謎にワクワクし、その解明に向けてグイグイと頁を繰った。英国黄金期のミステリーを思わせる名作だ。

 「世間に流通しているありとあらゆる種類の本のうちでも、ただひとつミステリーだけは、どうしても未完のままで出すわけにはいかないのだ。結末がなくても生き残ったミステリーというと、やはり作者(チャールズ・ディケンズ)が死亡し、未完のままに終わった『エドウィン・ドルードの謎』くらいしか思いつかない……」

 結末の消えたミステリーをまえにした編集者の嘆きで、そういえばわたしも一作だけ未完のミステリーを読んだことがある。レイモンド・チャンドラー『プードル・スプリングス物語』で、ただし未完の遺作をロバート・B・パーカーが書き継いで三十年ぶりに完成させたのだった。

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 「芳華 -YOUTH-」は文化大革命末期の一九七六年に十代後半だった若者たちのおよそ四十年にわたる人生行路を描いた中国現代史のなかの青春群像劇だ。

 ついでながらわたしがはじめて中国へ行ったのはこの映画の起点である一九七六年だった。

 解放軍内にある文芸工作団(歌舞団)に在籍する若者たち、歌舞に秀でたかれらは革命の理想を掲げ、練習に、慰問に尽力しているが、共同生活のなかでは恋愛、いじめやそねみなどの問題があり、とりわけ男女の仲がひとつ間違って政治態度の問題に及ぶと団からの追放は免れない。

 厳しい環境だが、何人かの団員が新しい文化の潮流を探ろうと、禁止されているテレサ・テンの歌をひそかに聴き、心を動かされるシーンに、変化のきざしが示されていた。文工団に在籍していたフォン・シャオガン監督と原作者で脚本も担当したゲリン・ヤンの二人の、もしくはどちらかの実体験と思われる。 

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一九七六年、周恩来朱徳毛沢東が死去、一九七九年中越戦争の勃発、そして改革解放、経済発展へと中国社会は動く。団のなかでは政治態度を問われた男が兵士として、女が看護師として中越戦争の戦場へと赴任し、この二人を中心に団員たちのその後が描かれる。

 やがて団は解散となり、団員たちはそれぞれの道を歩む。九十年代に再会したかつての文工団のメンバーのなかには上手く時代の波に乗った富裕層や事業に成功した者がいるいっぽうに取り残された者もいる

 文工団の十代の少女たちの輝きをカメラは美しく捉え、息を呑むリアルさで中越戦争の現場を映し出す。紅衛兵の次の世代にあたる、一九六0年前後に生まれた団員たちの青春の輝き、そして時代の波に翻弄されながら嘗めた辛酸、いまに残る傷痕。団を追われるように戦場に赴いた男女がしぶとく生き残り、現在を語りあうラストシーンに胸が詰まった。

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 稚児が出家得度するに際しての別れの宴で、酔って浮かれて調子に乗り、三本足の足鼎に顔を差し入れて興じていたが、いざ抜こうとすると抜けず、やむなく力まかせに引っ張り、ようやく抜けたときは耳鼻を欠き、穴があいていた。『徒然草』第五十三段にある話である。

 想像するに、宴席には件の法師のほかに、鼎にまったく関心のなかった者もいれば、三分の一ほどかぶって止した者や傍らで囃し立てた者たちがいたであろう。

酔狂して一命はとりとめたものの長患いに及んだ仁和寺の法師を嗤うのはたやすい。しかし、どこまでアクセルを踏み込み、どこでブレーキをかけるとよいかは難題で、石橋をたたいても渡らない慎重、アクセルとブレーキをわきまえた明哲保身、行くところまで行った果敢、いずれにしてもそれぞれの人生模様である。

 「失敗は受け入れられる。誰もが何かの失敗をしている。だが、挑戦しないでいる事を受け入れる事はできない」とは「バスケットボールの神様」としていまなお語り継がれるマイケル・ジョーダンの言葉だが、そうはいっても挑戦したあげく鼎の法師になってしまうのは難儀なことだ。

 先日、Blu-rayでみた「仁義なき戦い」全五部作のうち「広島死闘篇」で千葉真一が演じた大友勝利が古参幹部とこんなやりとりをしていた。

 「若、村岡に喧嘩売って、勝てると思うとるんですか!?」

 「やかましいッ!やってもみんで勝つも負けるもあるかい!」

 「やってもみんで勝つも負けるもあるかい」の広島やくざと「挑戦しないでいる事を受け入れる事はできない」のバスケットボールの神様は言っていることはおなじだが、取り合わせがみょうに可笑しい。

 そしてマイケル・ジョーダンの言う、挑戦しないでいる状態を大友勝利は「センズリかいて仁義でクビくくっとれい云うんか」と言い放つのだった。

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 Blu-ray「仁義なき戦い」シリーズのあと、四十数年ぶりに飯干晃一『仁義なき戦いー美能幸三の手記より』死闘篇・決戦篇の二部作を読み返した。

 昭和四十年代の本らしく、「しかとう」に「鹿十(しかとう)というのは、ヤクザ用語で、ソッポを向くという意味。花札の十月が鹿の絵で、この鹿が横を向いているところからきている」と註釈がある。いまシカトは市民権を得ているから註は付かないかもしれない。

 ほかにヤクザ業界の用語として有名なものに「チンコロ」(密告)や「うたう」(自白する)がある。「切符」(指名手配)や「大学」(刑務所)もよく知られている。

 「みかじめ」はもともと管理、監督、取締りの意で、のちに所領と年貢と保護という武士と農民との関係を指すようになり、ヤクザがこの構図を受け継ぎ業界用語となった。昨年の末だったか、銀座の高級クラブなどからみかじめ料の名目で現金を脅し取ったとして暴力団の組長らが逮捕された事件があった。かつて武士が所領安堵のため「一所懸命」となった「みかじめ」のいまの姿である。

 ところで、「仁義なき戦い」のキィ・ポイント、戦後ヤクザ史上、どうして広島がいちばん凄まじい闘いの場となったのかについて飯干晃一の分析をまとめておこう。

 まず、原爆により破壊し尽くされた広島を再び都市として建設するため、建設業者、手配師労務者があふれ、酒と売春と喧嘩で賑わい、独特の気風を生んだ。原爆と戦後の結びつきが抗争に繋がったのである。

 つぎに、広島、呉は日本でも有数の軍都であり、日清戦争では広島に大本営が置かれ、呉軍港は軍の拠点であった。そのため米軍と英連邦軍は早くから進駐し、占領軍の重要拠点のひとつとなった。その占領軍の不心得者が広島ヤクザに拳銃を供給したため「荒っぽくて、道具(拳銃)が豊富」の環境ができた。

 さらに昭和三十五年から三十六年にかけて、日本の裏社会は統一と再編成に向かって激動の時期を迎え「首都を手中にするにためには、地方を全部制圧しなければならぬ」事態となった。そこで広島は、統一をめざす関西を拠点とする二大暴力団にとって譲ることのできない一大戦略地点となった。

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 霜月蒼『アガサ・クリスティー完全攻略』を導き手としてはじめたわたしのクリスティー攻略作戦。ストーリーを追うのが苦手な日本のどんくさいわたしは映画、テレビドラマを見るのにあわせて原作を読んでおり、これまで断続的に十五作品を読み、そして見た。

 テレビではデヴィッド・スーシェポアロならびにジョーン・ヒクソン、ジェラルディン・マクイーワン、ジュリア・マッケンジーミス・マープルをたのしんでいる。

 いまのところ霜月師匠が高く評価する作品を中心に三十作品を目標にしていて、ここらあたりへくるとはじめのほうの作品は忘れているものもあるだろうから元へ戻るもよし、記憶力など気にせず先に進むもよしで、こんなふうにしていると一生たのしめそうだ。

 映画では先日公開された「ねじれた家」をクリスティーの同名原作を読んだあとに見た。一九五0年代のイギリス上層階級の風俗や当時のダンスホールを眺めながらミステリーにひたる午後のささやかな贅沢のひとときだった。できれば犯人がわかったあとの、ねじれた家のねじれた人たちの反応を描いて欲しかったけれど。

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 こうしてたっぷりとある暇な時間を映画、テレビドラマ、そして珈琲と読書、ジョギング、このブログの記事を書くことなどに費やす。いずれも気晴らし、退屈しのぎに過ぎないけれど、これらが生活のリズムを作ってくれている。貧しいが気儘な隠居生活である。