『「ふらんす」かぶれの誕生』

永井荷風の乗る信濃丸がカナダのヴィクトリア港を経てシアトル港に到着したのは一九0三年(明治三十六年)十月七日のことだった。父久一郎のすすめによる渡米だったが、荷風自身はフランスへの思いを断ち難く、渡仏志望が変わらぬことを父に訴えた結果、配慮されて横浜正金銀行ニューヨーク支店からフランスのリヨン支店への転勤が実現したのだった。
一九0七年七月二日転勤の命を受けた荷風は同月十八日ニューヨークを出帆し二十八日パリに到着した。自身の眼でフランスの木立や麦畑を見た感想は「アメリカの自然は、厳格極りなき父親の愛」だとすればフランスの自然は「母親の情と云ふよりも、寧ろ恋する人の心に等しい」(「船と車」)というものだった。
「巴里のわかれ」に、中学校で初めて世界歴史を学んだ時から「子供心に何と云ふ理由もなくフランスが好きになった」「自分は未だ嘗て、英語に興味を持つた事がない。一語でも二語でも、自分はフランス語を口にする時には、無情の光栄を感ずる」とあるようにもともとフランスへの思いが強かった荷風であり、渡仏はフランスびいきの心情を一層強くした。
「子供心に何と云ふ理由もなくフランスが好きになつた」と書いた荷風だが、額面通りに受け取るよりも維新以来の官民による西欧市民文化の急ピッチな摂取のなかで何らかの刺激や影響を受けた荷風がみずからをフランスびいきとしたと考える方が理に適っており、そこには「何と云ふ理由もなく」どころではない理由があったはずである。

山田登世子『「フランスかぶれ」の誕生』 (藤原書店)は明治、大正そして昭和にかけてのフランスへの憧憬を論じた書で、副題に「「明星」の時代1900-1927」とあるようにこのかんのフランスびいき、フランスかぶれの心性の起こりと展開が、荷風の「何と云ふ理由もなく」の問題も含めてスリリングに論じられている。文章は明晰、日本語と感性の変化についての議論は筋が通り、わたしのような門外漢にも興味深く読めた。
舞台となったのは一九00年(明治三十三年)に創刊された雑誌「明星」。創刊号には「千曲川旅情の歌」が載り、まもなく上田敏の西欧文学の紹介やフランスの薫りを高くくゆらせた訳詞、森鴎外訳『即興詩人』、与謝野晶子の短歌など目を見張る作品が相次いで掲載された。
「明星」を主宰したのは与謝野鉄幹、その慧眼がのちの日本人の文体と感性に大きな影響を及ぼした。この流れのなかに白秋、啄木、杢太觔、荷風大杉栄堀口大學といった人たちがいた。
本書に折口信夫「詩語としての日本語」が引用されている。ここで折口は『若菜集』について「明治の詩であるためには、日本語の古語の持っている民族的な風格が必要だった」「藤村の事業は、古語が含んでいる憂いと、近代人のもつ感覚とを以て、まず文体を形作ったのである。そうした処に、思想ある形式が完成した。詩の品格は、そこに現れた」と論じている。そして「古語が含んでいる憂いと、近代人のもつ感覚」をフランス象徴派の訳詩として差しだしたのが上田敏だった。
秋の日の
ヴィオロン
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。
訳詞集『海潮音』の代表作のひとつヴェルレーヌ「落葉」の一節だ。「『海潮音』所収の訳詞の多くが「明星」初出である。フランス象徴派の愁いと雅びが品格ある文語に移しおかれて、どれほどの憧憬をよびさましたことだろう」と著者が述べているように『海潮音』は「ふらんす」かぶれを生む大きな契機であり、その背後には与謝野鉄幹というマネージャーがいた。
ついでながら折口信夫の指摘はじつに鋭くて「詩の品格」さらには日本語の品格をキィ・ワードにすると『海潮音』『即興詩人』また『邪宗門』『白羊宮』さらには『珊瑚集』『断腸亭日乗』といった雅文文学史が見通せる。
明治二十年代から三十年代にかけての文語体は「美文」と呼ばれていて、著者は「『明星』に掲載される作品は(中略)どれもが文語のもつ憂いと雅びを帯びて、卑近な現実に距離をもとうとしている。美文とはいわば『夢見る形式』だった」と述べている。
その夢の彼方にフランスはあった。
半藤一利永井荷風の昭和』によると、戦没学生の手記『きけわだつみの声』に、戦死した学徒兵のかたわらにヴェルレーヌ詩集のページが風にひらめいているといった記述があり、三島由紀夫はこれを「最も醜悪な日本知識階級の戯画」であり、この醜悪の元祖が荷風だと断じたそうだが、醜悪云々は別にして、荷風を元祖としたのはかいかぶりで、風にひらめくヴェルレーヌ詩集は与謝野鉄幹までさかのぼらなければならない。
以下余談をひとつ。
「東京行進曲」というモダン東京のメロディを作曲した中山晋平は、宝塚歌劇団が舞台でシャンソンを歌い、社交ダンスでジャズの演奏がされるように日本人の音楽の好みは変ったとしたうえでフランス詩にたずさわる西条八十に「現代を的確にとらえたモダンな歌詞」を求めた。本書の後半にある挿話で、上田敏の訳詩集の日本語は歌謡曲にも影響を及ぼし、以後、八十の活動を通じて夢の彼方のフランスは昭和戦前の歌謡曲流入した。こうしてフランス詩の絡む流行歌は昭和の大衆の感性を形づくる一要因となった。「自由を我等に」「望郷」「舞踏会の手帖」「商船テナシティー」等々いずれ劣らぬフランス映画の名篇にかつて多くの日本人が心酔したのにもこの感性が作用していたと考えてよいだろう。