元禄十一年(一六九八年)八月、隅田川に長さ百十間(約二百メートル)の大橋が架けられ、永代橋と名付けられた。場所は深川の渡しがあったところでいまの橋よりも百メートルほど上流にあった。
「つく田島つくづく月をながむればかたぶく秋の長きよのはし」(大田南畝)
このめでたい名前をもつ橋が、文化四年八月十九日(西洋暦では一八0七年九月二十日)徳川十一代将軍家斉のとき崩落し、大事故となった。
当日は富岡八幡宮の十二年ぶりの大祭に大勢が繰り出した。このとき公方様の御座船が永代橋をくぐるので橋はいったん通行止になった。船が橋の下を通り過ぎ、東西の橋詰が同時に解禁されるとあまたの人たちが橋上でかち合い、その圧力で橋の中ほどが崩れ落ち、あとから押し寄せてきた人たちも落下し千四百余名が落命した。
この出来事で「長きよのはし」と讃えた太田南畝は「永代とかけたる橋は落ちにけりきょうは祭礼あすは葬礼」と詠まなければならなかった。
永井荷風「大田南畝年譜」によるとこの日(荷風は八月十五日と誤記している)南畝は船に乗り間部河岸(まなべがし、現中央区日本橋浜町一丁目)まで来たとき橋の落ちたのを知った。
東日本大震災が起きたのはそれから二百年あまりのちの二0一一年三月十一日。
永代橋崩落と福島原発事故を見据え、小沢信男は『俳句世がたり』(岩波新書)に「そうか。永代とは、安全神話のたぐいであったのか。してみれば、この地震列島に原発を五十四基も、交付金をばらまいて建てならべ、あげくに福島原発が崩壊して、家郷を追われた人々が十四万人。蜀山人の嘆きが、百倍にもなってこんにちに届くようです」と卓見を述べた。
こうして太田南畝と小沢信男の嘆きは時空を超えてリンクしたのだった。
先日、小沢信男氏の訃報に接した。三月三日、享年九十三。
よく谷中にあるご自宅の前をジョギングするがお見かけしたことはない。まえから気になっている作家だがほんのわずかしか読んでいない。ただし名コラム集『俳句世がたり』は韋編三絶とはいわないけれどしばしば頁を繰っている。これからも本書を開く機会は多いだろう。そしてはやく他の著作にも親しみたい。