マイ・ファニー・ヴァレンタイン

ジャズのスタンダードナンバーでいちばん歌われ、演奏される機会の多い曲はなんだろう。第一感は「 マイ・ファニー・ヴァレンタイン」( my funny valentine )で、ボーカル、インスツルメントゥル問わずいろんなアルバムに収められていて聴く機会が多いことからくる推測です。

一九三0年代に数多くのヒット曲を世に送りだした名コンビ、リチャード・ロジャース(作曲)とロレンツ・ハート(作詞)が一九三七年ミュージカル「ベイブス・イン・アームズ(babes in arms)」のために書いたこの歌曲について和田誠さんは『いつか聴いた歌』に「ポピュラー・シンガー、ジャズ・シンガーがほとんどと言っていいほどこの歌をレコーディングしていますね。歌い手なら一度は歌ってみたい歌なのであろうか」と書いていて、わたしの推測を補強してくれている。

数多いなかでいちばん回数を重ねて聴いたのがボーカルでは「チェット・ベイカー・シングス」に収めるヴァージョン、 インスツルメントゥル ではマイルス・デイヴィスクインテットが断トツ。めったにしか歌われないヴァースのはいったボーカルでは吉田日出子の、おなじく演奏される機会のすくないなかでエディ・ヒギンズ・トリオにスコット・ハミルトンが加わったセッションが好きだ。

ヴァースはコーラスにいたるまでの歌詞をもつ導入部分で、わたしの学力ではこの曲のヴァースはむやみにむつかしい。

Behold the way our fine feathered 、friend,

His virtue doth does parade
Thou knowest not, my dim-witted friend
The picture thou hast have made
Thy vacant brow、and thy tousled hair

Conceal  thy good intent
Thou noble uprigh truthful sincere

And slightly dopey gent

大まかにいえば、わたしのお馬鹿さんの男は薄い眉にぼさぼさの髪、高潔でまっすぐな正直者だけれどすこし間抜けで鈍感なの、といったところでしょう。

そしてコーラスに入ると低学力のわたしもほっとする。

My funny valentine Sweet comic valentine

You make me smile with my heart

You looks are laughable Unphotographable

Yet you are my favorite work of art

Is your figure less than Greek? Is your mouth a little weak?

When you open it to speak

Are you smart?

But don’t change your hair for me Not if you care for me

Stay little valentine stay

Each day is Valentine’s Day

よく知られたメロディ、歌詞で、ここでは歌詞にみられるヴァレンタインさんのファニー(おかしな、こっけいな、奇妙な、一風変わった)のありようをみておきましょう。

私のヴァレンタイン、あなたのルックスは笑っちゃいそうだし、写真向きじゃないし、スタイルはギリシャ彫刻より劣る、口元はゆるゆるで、おしゃべりにしても機敏や活発とはいえない、でも「私」にとってあなたは最高の傑作、だから髪の毛一本変えないで、そのままでいてほしい。

ご覧のとおり身体の器官について語っているのは口元だけ、あとは「私」がいだいているイメージで、これは作詞家の見識だっただろう。だって鼻の高低、眉の濃淡、目と目との間隔などをどうとかこうとかいっていては角が立つし、ファニーフェイスの魅力にはつながらない。「私」はヴァレンタインにそのままでいてほしいのだから。

ヴァースにあるようにもとのミュージカルでは、スージーという女性が、恋人のヴァレンタインのためにうたう曲だったのが、やがて男性歌手がうたえばヴァレンタインは女性、女性歌手がうたえば男性となり、いまは男が男のヴァレンタインに、女が女のヴァレンタインにささやいているシーンもありとしなければならないでしょう。

 わたしはこの歌を聴くと、ときに「おてもやん」の一節が浮かぶ。ルックスがどうであれ「わたしゃあんたにほれちょるばい」で恋人どうしはしあわせなのである。

いっぽうちいさなころから美しいといわれて育った女性のばあいはどうか。たとえばクレオパトラ楊貴妃小野小町いずれも順風満帆どころか苦労は多く、よい最期ではなかった。美人であることもけっこう苦労が多いらしい。美人に生まれたくて生まれたわけじゃないのにね。

戸板康二はズバリ「美人薄命」というエッセイに「大体、美しいといわれて、娘が大人になるというのは、決して幸福なことではないというのが、ぼくの意見だ。/十人のうち半分以上は、自然に思いあがる気分になり、自分よりも容姿の劣る同性に対して優越感を持ち、長じては男性は自分に奉じてくれるものと思い込んでしまう傾きがある」なんて書いている。

美しいといわれていい気になっていると幸せを逃しやすいなんて説教される女性は気の毒というほかありません。中国清代に袁枚が著した『子不語』に平陽の令を勤めていたお役人の話があり、性質甚だ残忍で、罪人殊に婦女の罪案については残酷、そのなかでも顔の美しい者ほど刑罰を重くしたこの人は「こうして世の道楽者を戒めるのである。美人の美を失わしむれば、自然に妓女などというものは亡びてしまうことになる」などといいながら美女を生贄にした。

美人かファニーフェイスかなんて二項対立でものごとをみてはいけない。たいせつなのは「わたしゃあんたにほれちょるばい」なのだ。

 

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