「聖女カテリーナ像」

のちに作家、エッセイストとなる須賀敦子が新設された聖心女子大学に入学したのは一九四八年(昭和二十三年)のことだった。西洋史の授業でデンマークの作家ヨルゲンセンの著した『シエナの聖女カテリーナ』の英語版を読み、レポートしたのもおなじ年で、この本は彼女の生き方に大きな影響をもたらした。
カテリーナの生きた時代(一三四七年〜一三八0年)、教皇庁はフランス国王との対立によりローマからアヴィニヨンに移されていた。一三0九年から七七年にかけてのアヴィニョン捕囚で、古代のバビロン捕囚になぞらえて教皇のバビロン捕囚とも呼ばれる。カテリーナは王と教皇との関係に心を痛め、両者の和解に努めた。
須賀敦子は学問をおさめ、国王と教皇との関係修復にまで関与したカテリーナの生き方に心を揺さぶられた。『遠い朝の本たち』には「『神だけにみちびかれて生きる』というのは、もしかしたら、自分がそのために生まれてきたと思える生き方を、他をかえりみないで、徹底的に追求するということではないか。私はカテリーナのように激しく生きたかった」とある。また聖女カテリーナの町に心を寄せて「(トスカーナの)なかでもシエナは好きな町で、機会あるごとに、私はこの丘の町に帰っていた」と書いている。
一九七一年四月十日須賀敦子四十二歳の日記には「ヨルゲンセンなどの伝記を通して、私の若い日に尊敬した、強い女性のカテリナ」「その彼女が通いつづけた量感の美しい(この辺の麦わらの山を思わせる)サン・ドメニコ教会の横を通ったとき、なにか胸がはずんだ。親しい友人の家の前を通るかんじ」とある。
そしてこの日、彼女は広場のタバコ屋でアンドレア・ヴァンニの描いたカテリーナの肖像画の絵葉書を買い「美しい、カテリナの肖像画シエナ派の私は、きれながの目がひどく好きだ。お茶のお点前の時の柄杓のような具合に、白い百合の枝をもって、つめたいような顔をしている。カテリナの沈黙に、私は、心をひかれる」としるした。

シエナのサン・ドメニコ教会には十四世紀の画家アンドレア・ヴァンニの描いた「聖女カテリーナ像」があり、唯一信頼できるとされるこの肖像画の写真が須賀敦子松山巌他『須賀敦子が歩いた道』(新潮社)に収められている。昨年のイタリア旅行にはシエナが旅程に入っていて、できればこの像に接したいと願っていたが時間の制約からサン・ドメニコ教会は外から眺めただけだった。
帰国してあれやこれやと先人の書いたイタリア旅行記を眺めているうちに田之倉稔林達夫・回想のイタリア旅行』(二00八年イタリア書房)で聖女カテリーナと再会した。須賀敦子がカテリーナ像の絵葉書を買ったおよそ三カ月あとの七月十三日林達夫、芳夫妻は羽田空港を発ちパリへと向かった。この本は、一九七一年西洋精神史の研究者林達夫が夫人とともにはじめてイタリアを旅したときに同行した著者の回想記で、当時著者は若手のイタリア演劇研究者としてパリに滞在していた。そしてここにも「聖女カテリーナ像」の絵葉書が出てくる。

シエナの広場は世界で最も美しい広場のひとつとして知られるが、田之倉氏がここのカフェに座って感慨にふけっていると芳夫人がやって来て絵葉書を買ったとうれしそうに見せてくれた。
カテリーナが一輪のゆりの花を左にもち、頭に巻いた白い布の端が黒いガウンの中ほどまでたれていて、その先にある右の手に一人の女性がひざまずいて接吻をしている。おそらく須賀敦子が買ったのとおなじ絵葉書だったであろう。
芳夫人はかねてからこの肖像を探していて、これを見つけただけでもシエナへ来た甲斐があったと語っていたという。これには夫の影響もあったのではないかと田之倉氏は推測している。
須賀敦子を通じて知ったと思っていた聖女カテリーナだが、夫の影響というところで、すでに読んだことのある林達夫の著作でお目にかかっているらしいと知った。見れども見えず、読めども読めずというわけでまことに情けない。
調べてみると林達夫は「婦人公論」一九四七年四月号所載の「邪教問答」でカテリーナに言及していて、宗教にあっては知的な関心ではなく「誰々に倣いて(イミテイション・オブ)」がもっともふさわしい道の踏み方であり、とりわけ女の人とは「聖母マリアやその幼な児イエス、アシジの聖フランチェスコやその女友達キアラ、わけても私の大好きなシエナの聖女カテリーナのことなど」を語りあってみたいと述べている。
カテリーナの肖像画についても林達夫は「ユリの文化史」(「新婦人」一九五七年七月号)でシモーネ・マルチニやフラ・アンジュリコの「受胎告知」などとともに白ゆりのある宗教画の最も美しいものと讃えている。「純潔」「清純」「無垢」を表象するゆりはキリスト教の最も愛好する花であり、悔恨にくれたイヴの流した涙から生じたとの言い伝えがあるそうである。
林達夫が「邪教問答」を発表した翌年、大学生となった須賀敦子ヨルゲンセンの『シエナの聖女カテリーナ』を通じてカテリーナを知った。彼女にとって聖女カテリーナは知的な関心を超えて「倣う」べき存在だった。
こうしてイタリア旅行を前に読みはじめた須賀敦子の著作からかつて読んだ林達夫の「邪教問答」や「ユリの文化史」がよみがえったわけで、これは近年わたしが実感した最大の読書の醍醐味であった。キリスト教徒でもないわたしに聖女カテリーナが須賀敦子林達夫を結びつけてくれたような気さえする。
ついでながらせっかくシエナを訪れたのに聖女カテリーナの絵葉書は旅のあとに仕入れた知識なので残念ながら次回の旅に期するほかない。
歴史の対象としてキリスト教に関心はあっても、須賀敦子が聖女カテリーナに心を動かされたような体験はわたしにはなく、シエナの町をあるきながら宗教についてつきつめて考えたことのない自分がその文学をどれだけ理解できるだろうと不安をおぼえた。林達夫の該博な知識をもとにした西洋精神史の考察についても心もとないばかりだ。それでもなおすこしでも理解に努めようとするならば、一冊の書、一枚の絵といういわば細部、切片をたいせつにしながら蝸牛のあゆみを進めて行くほかない。アンドレア・ヴァンニ「聖女カテリーナ像」はわたしにそうしたことを語りかけてくれている。
(写真上は『須賀敦子が歩いた道』(新潮社)より、下は田之倉稔林達夫・回想のイタリア旅行』より)