新コロ漫筆~「地獄を作るな」

「天堂を願はんより地獄を作るな」

太田南畝『半日閑話』に引かれてあったある方の家訓で、天堂は天上界、極楽浄土を意味している。

菅首相東京オリンピックパラリンピックを開催して成功させ、衆議院議員選挙の勝利と自身の自民党総裁再選を果たし、首相続投につなげる意向と報じられている。めざす「天堂」である。ところがこの人は見たい現実しか見ようとしないタイプの方だから「地獄を作るな」の発想をどれほどお持ちなのだろうか。

七月八日。政府は、東京都において、新規陽性者数が高い水準にあり、増加傾向が見られることなどから、感染拡大の防止等を図るための措置として緊急事態宣言を発出することを決定した。これを受けて、大会組織委員会や東京都、国際オリンピック委員会IOC)などは五者協議を開催し、都内の全会場を無観客とすることを決め、さらに神奈川、埼玉、千葉の三県の競技会場も無観客が決定した。

さっそく有観客を断念し無観客としなければならないほどに、首相が描いた「天堂」の実現は簡単ではない。首相としては残念だっただろうが「地獄を作るな」のためには無観客の措置はよかった。

それからひと月も経たない八月二日、またまた「地獄を作るな」と声を大にして訴えたい事態が生じた。

東京新聞によると政府はこの日の夕方、新型コロナウイルス感染症の医療提供体制に関する閣僚会議を首相官邸で開き、肺炎などの症状がある中等症について重症化リスクが高い人を除き、自宅療養とすることを決めた。家庭内感染の恐れや自宅療養が困難な場合はホテルなどの宿泊療養も可能とする。デルタ株の広がりによって全国の新規感染者が1万人を超える日もあり、病床不足への懸念が強まっており、これまでの原則入院から事実上の方針転換となる。

同紙はまた、入院対象を重症者などに厳格化し限られた病床を効率的に使うのが目的だが、自宅療養者が増えれば容体急変時に迅速に対応できない恐れがあり、健康観察態勢の整備が急務となると懸念を伝えている。

これに先立つ七月二十七日の記者会見で菅首相は「重症化リスクを七割減らす新たな治療薬を確保した」、新型コロナの新規感染者数が過去最多を更新するなか「徹底して使用していく」と豪語した。この新薬は中外製薬の抗体カクテル「ロナプリーブ」で点滴として軽症・中等症の患者に投与する。治験では肥満や高血圧など重症化リスクの高い患者に一回投与すると、入院または死亡リスクがおよそ七割減ったとされる。

けっこうな話ではあるが「ロナプリーブ」は軽症・中等症の患者に点滴で投与するものだから短期であっても入院が必要となる。つまり軽症・中等症の患者は自宅療養とされると重症化リスクを七割減らす治療薬は使用できない。こうして発言に体系性、一貫性はなく、入院と治療薬との関連ひとつとっても理解に苦しむ。

感染対策を徹底し、国民の命と健康を守り、安心・安全な大会を実現していく、というのが、新型コロナ対策の推進とオリンピックパラリンピック開催に向けての基本ラインである。極楽浄土の願いとともに地獄を作るなの発想があれば今回の問題についてもホテルの借り上げの拡充や大規模ホールや体育館を一時的に療養施設とするなど手の打ちようがあったはずだ。

ニュースを聞いてすぐさま、感染者と同居家族はどんなふうに生活すればよいのか、病状が急変した際の家庭と医療機関との連絡協力体制はどうあるべきか、単身者だと病状の悪化で連絡ができない場合だって想定しておかなければならず、ふつうに生活できても食事や買い物はどうすればよいのだろう、などの不安を思った。

「地獄を作るな」は防御力を充実せよ、ディフェンスを強化せよという戒めである。攻めと守り、どちらも重要ではあるけれど、新型コロナ禍のいまより強く求められるべきは守り、すなわち感染拡大防止の工夫だと思う。首相がGoToトラベルでブレーキを踏むべきときにアクセルを踏んだために感染の拡大と経済の損失を招いたのはディフェンスの弱さであった。

 

(附記)

八月五日。参議院厚生労働委員会の閉会中審査で田村憲久厚生労働大臣新型コロナウイルスの感染拡大に伴う入院対象者の見直し方針について、「中等症は原則入院。重症化リスクが低い人が在宅になる」と述べ、実質上、見直し案を修正した。

菅首相の退任表明前に書いたものですが、述べたいことに変わりはなく、そのまま載せました。