新コロ漫筆~勇気、希望、絆

東京オリンピック1964のときは中学三年生だった。日紡貝塚大松監督と東洋の魔女、体操個人女子総合金メダリストのチャスラフスカ、マラソンアベベ、円谷たちの姿はその気になればいまでも瞼に浮ぶ。教室では先生が「ソ連の重量挙げの選手たちは食パンとおなじ厚さのバターを塗って食べているそうよ」というとわたしたち生徒は「へーえ、ほんとかよ」とびっくりし、あきれていた。わたしにこれほど思い出の詰まったオリンピックはない。

五月十四日菅首相は官邸で記者会見し、東京オリンピックパラリンピック開催の意義について「世界最大の平和の祭典であり、国民に勇気と希望を与える」と語った。これに先立つ五月十一日、丸川珠代オリンピックパラリンピック担当大臣は閣議後の定例会見でオリパラ開催の意義を問われ「コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す大きな意義がある」と語った。

思い出いっぱいの東京オリンピック1964だけれど菅首相のおっしゃる勇気と希望をいただいた思い出はない。絆なんて意識になかったどころか言葉さえ知らなかったかもしれない。希望は自身の人生のなかで創ってゆくもの、勇気はあげたりもらったりするものではない。競技観戦は勇気や希望のサプリメントや栄養素となっても、本質的にそれらは自身のなかから湧いてくるもの、自らが生み出すものである。

一九六四年の東京五輪では「より速く、より高く、より強く」たがいに競いあうなかで人間的にも向上してゆこうといわれていたが、だれも勇気や希望や絆のことなどいっていなかった気がする。もちろん時代には変化があり、スポーツについての意識も変わったのかもしれない。それにしても現代のアスリートたちは人々に勇気や希望をもたらすためとか、人々のあいだに絆を取り戻すためにプレーするよう期待されているとすればあまりに過剰な負荷というべきで気の毒に思えてくる。 

こうしてわたしは首相、五輪担当大臣が語るスポーツと希望、勇気、絆との関連には懐疑的である。といってもわたしはスポーツをこよなく愛し、いまも長距離走に出走し、在職中は競技団体の役員を積極的に務めたつもりだ。そしてスポーツから数多くの感動をいただいた。しかしながら希望と勇気を頂戴した覚えはない。そもそも勇気をもらったなんて日本語は昭和のある時期まではなかった。

余談ながらわたしに最大の感動をもたらしてくれたのは一九七二年一月十五日のラグビー日本選手権早稲田大学vs三菱自工京都の一戦だった。雨に湿った雪がまじり、泥濘状態の秩父宮ラグビー場のピッチで早稲田のウイング堀口選手がゴールラインを越えた伝説的な逆転トライ、そこからさほど遠くない観客席にわたしは友人といっしょにいた。凍えるほどの寒さとは裏腹に心は燃えていたが、翌日は寒さの余波で発熱があり、大学四年間で一度だけ学内の診療所に足を運んだのだった。閑話休題

あれから半世紀近くが経ったいま、菅首相のいう勇気と希望、おなじく丸川大臣の絆、これらの情緒的なことばの傍らに新型コロナ感染症のリアルがある。そのリアルについて首相側近の高橋洋一内閣官房参与はみずからのツイッターで死者数のグラフを示すとともに「日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑」と投稿した。

現状がさざ波か津波かはそれぞれが観察し判断すればよい。オリパラ中止をいって世界から笑われても笑われなくてもどちらでも結構だ。重症化しやすい高齢者としてのいちばんの問題は陽性か陰性の二つに一つ、 さざ波でも津波でも五割の勝負であることに変わりはない。

首相はいま「開催にあたっては、選手や大会関係者の感染対策をしっかり講じた上で、安心して参加できるようにするとともに、国民の命と健康を守っていくのが、これが開催にあたっての政府の基本的な考え方だ」としきりに繰り返している。これがほんとに可能ならだれもオリパラに反対しない。しかし多くの人々がこの発言に疑問を投げかけているのはそこに信頼するにたるデータも体系的な施策、具体策もないからにほかならない。

オリンピックパラリンピックに寄せて希望、勇気、絆をいうのであれば、政府は感染症を抑えることにおいても国民に希望、勇気、絆を示していただきたいと心から願っている。