2019旅順、大連、錦州(其ノ一)

二0一九年六月十四日、成田空港から大連へ向かった。所要時間三時間余り。一九七六年三月にはじめて訪れて以来中国へは何度か来ているが東北地方は今回がはじめてだ。

大連市は日中関係の要衝となった都市で、南満洲鉄道株式会社(満鉄)の本社や関東軍の司令部があったところ。日本の前にはロシアが租借していてパリのような都市の建設をめざしていたが日露戦争の敗北により挫折し、日本の租借地となった。

写真はかつての日本人街で、満鉄社宅はこの地域にあった。

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わたしは大連を「だいれん」と呼んできたが「たいれん」という人も多くいたそうで、安岡章太郎阿部昭との対談で「当時の内地では『たいれん』といってたんだ。満州に行った人だけが『だいれん』というんだよ。特に大連に住んでいる人は『だいれん』という。だから、ぼくらにとっては、大連から来た連中が『だいれん』というのを聞くと、非常に奇異な感じがした」と語っている。

ただし戦前の辞書、事典には「だいれん」「たいれん」ともに立項されていて安岡章太郎の証言によれば内地では「たいれん」が一般的だった。

大連とアカシヤとの結びつきを知ったのは清岡卓行アカシヤの大連』だった。清岡は一九二二年(大正十一年)に大連で生まれ、そのかん一高、東大への内地留学の時期を含め、敗戦による本土への引き揚げまで二十数年間を大連で過ごした。

アカシヤの大連』は一九六九年度芥川賞受賞作だからずいぶんと古い話だが、わたしはこの作品を未読のまま、大連と聞けばアカシヤを連想していたから、この書名は半世紀にわたり鮮烈なイメージをもたらしていた。

アカシヤは中国のイメージを喚起するものではなく、ヨーロッパを連想させた。「それは、かつての日本の植民地の都会で、ふしぎにヨーロッパふうの感じがする町並みであった」とは大連を扱った連作小説集『アカシヤの大連』所収の「朝の悲しみ」の一節である。

今回の旅から帰ってから半世紀のあいだ保留してきた宿題を果たすような気持で『アカシヤの大連』を読んだ。

「五月の半ばを過ぎた頃、南山麓の歩道のあちこちに沢山植えられている並木のアカシヤは、一斉に花を開いた。すると、町全体に、あの悩ましく甘美な匂い、あの、純潔のうちに疼く欲望のような、あるいは、逸楽のうちに回想される清らかな夢のような、どこかしら寂しげな匂いが、いっぱいに溢れたのだった」

明晰で美しい文章だ。

ちなみに『国民百科大辞典』(冨山房1934年~1937年)の「だいれんし」の説明には「邦人ノ建設シタ最初ノ近代的都市デ、市街ノ壮麗ナコト《東洋ノ巴里》ノ称ガアル」とあった。(清岡卓行『大連港で』福武文庫の解説参照、武藤康史執筆)

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大連中心部の中山広場には高層ビルが立ち並ぶが、なかで歴史文物としてよく知られるのがかつての大連ヤマトホテル、いまの大連賓館だ。

ヤマトホテルは南満州鉄道株式会社(満鉄)が経営する高級ホテルブランドで一九0七年から一九四五年まで満鉄線沿線の主要都市を中心にホテル網を展開しており大連ヤマトホテルはその旗艦店だった。

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広場は帝政ロシアが統治する時期に建設されていて、そのときはニコライェフスカヤ広場と呼ばれた。日本の統治時代は大広場の名称となり、近代的なビル群が建てられた。広場の変遷にも国際政治のありようが反映している。

大連にはヤマトホテルチェーンの経営母体だった満鉄の本社もあり、現在は鉄道事務所となっていて、一部が満鉄旧跡陳列館として開放されている。展示物の撮影はほとんど許可されていないが、一部許可されたなかに、本社ホールで行われた結婚披露宴の模様の写真があり、列席者のなかに佐藤栄作首相の若き日の姿が見えていた。

かつてのヤマトホテル、満鉄本社ともに中国人にとって不都合な歴史であり、痛みの残る歴史文物なのだが、しっかり整備され参観できるようになっていて、あらためて日中友好の大切さを思ったことだった。

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時代は前後するが、夏目漱石が友人の満鉄総裁中村是公に誘われて「満韓ところどころ」の旅に出発したのは一九0九年九月二日、大連港に着いたのは九月六日だった。夕刻、漱石中村是好を満鉄総裁邸に訪ねたが不在で、ヤマトホテルに投宿し、入浴しているところへ是好がやってきた。漱石が、どこへ行っていたんだと聞くと是好はベースボールをみて、それから船を漕いでいたと答えた。

アメリカ軍艦が大連港に停泊していて、この日と前日の五日に乗組員チームと満鉄チームが野球の試合をしていたのだった。

日露戦争から四年後、大連における野球を通じた日米友好という時代の雰囲気を垣間見せてくれる漱石旅行記で、野球を見ていた中国人の視線や日本の前に大連を租借していた帝政ロシアの事情を考えあわせると、その後の国際政治の重大要素が凝縮されている感のある大連なのだった。

「満韓ところどころ」で漱石が、「谷村君」という、中国人と組んで豆の商売を営んでいる人に案内されて商売仲間たちの旅籠、集会所、娯楽所を兼ねた家を訪ねるくだりがある。いわば大連の商人倶楽部で漱石盤上遊戯に興じている中国人の姿を見て「四人で博奕を打っていた。博奕の道具はすこぶる雅なものであった。厚みも大きさも将棋の飛車角ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。その札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合せに接いだもので、その象牙の方にはいろいろの模様が彫刻してあった」と書いている。

麻雀で間違いないと思われるが、ゲームの名は書かれておらず、念のためWikipediaを参照したところ、なんと、日本人で初めて麻雀に言及したのはおそらくこの文章だろう、ですって!日本文学史上のちょっといい話。

麻雀が日本に伝わったのは明治の末で、広く知られるようになったのは関東大震災の後だったが、文学史のうえでは漱石が大連の一室で見た光景に発していた。