旅のあとに

全巻を読むまえにその精髄を知っておきたくモンテーニュ『エセー抄』(宮下志朗訳、みすず書房)を読み、予想していた以上の魅力を覚えた。これで『エセー』に取り組む条件は整った。

『エセー抄』を読み終えてビル・エヴァンス「Explorations」を聴いた。先日この不世出のジャズピアニストの墓標のごとき映画「ビル・エヴァンス タイム・リメンバード」をみて系統的に聴いてみたくなった。「Explorations」では「イスラエル」と「ビューティフルラブ」が好きだ。

本とジャズと喫茶店、それにジョギングと映画、いずれも退職後の生活に楽しみとリズムをもたらしてくれていて、ジャズはストリーミング、本はできるだけ図書館で借りるようにして負担軽減に努めている。

六十代は海外旅行を主軸に生活を設計したけれど、現在の経済情勢、それに安倍内閣がもみ消そうとした二千万円くらい貯金がないと老後はヤバいとの警鐘を考えると、これからさき旅行は控えなければなるまい。それに望むところはほぼ行った。残るはエジプト、ヨルダン、イスラエル、それに贅沢をいっては切りがないがマルタやベラルーシアゼルバイジャンといったところか。

「ものを欲しがらないのは、ひとつの財産である。ものを買いたいと思わないのは、ひとつの収入である」(キケロ

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六月十八日大連、旅順、金州の旅から帰国した。このブログを書き継いでいるのは思いや調べたことなどを記事にするほかに気晴らし、退屈しのぎ、憂鬱の処理、健忘と認知症対応などの要素があり、今回の旅もそのうちまとめておかなければならないが、とりあえず金州で思いがけず出会った正岡子規の句碑についてノートしておこう。

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「行く春の酒をたまはる陣屋哉」を刻した子規の句碑は清朝の時代のお役所、金州副都統衙門だったところに建つ。

新聞「日本」の従軍記者として子規が乗る海城丸は一八九五年(明治二十八年)四月十三日大連港に入港した。周囲の心配をよそに病身を押しての赴任だった。このとき日清戦争は実質的には終わっていて子規はおよそ一月後の五月十五日帰国の途についた。

このかん五月二日子規は旧松山藩主で伯爵そして近衛師団副官だった久松定謨(さだこと)から金州の有名割烹店、宝興園にお招きにあずかった。この日の宴のさまを詠んだのが上の句で、一九四0年(昭和十五年)日本人の篤志家により碑が建てられた。

この碑は第二次世界大戦で所在がわからなくなってしまったが一九九八年になって工事現場から埋められていたのが発見され、二00一年にふたたび建立された。

再建の中心になったのは『子規・遼東半島の三三日』の著者池内央(いけうちひろし)さんで、著書の刊行は一九九七年だから、翌年になって行方不明の句碑が発見されたのは運命的だった。

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昨年旅したウズベキスタンで買ったTシャツを着てテアトル新宿へ出かけ、日本とウズベキスタン国交樹立二十五周年及びナヴォイ劇場完成七十周年を記念した国際共同製作作品「旅のおわり世界のはじまり」(黒沢清監督)をみた。

取材のためにウズベキスタンを訪れたテレビ番組のレポーター(前田敦子)が番組クルーとともにシルクロードを旅するなかで人間と社会についていろいろと考える姿を描いた同国でのオールロケ作品で、曾遊の地を大きな画面でみられるのはうれしい。なかに、抑留された日本兵捕虜が建設にあずかった写真のナヴォイ劇場の舞台に前田敦子が立つ夢のシーンがあり、同劇場を外から眺めただけのわたしにはありがたかった。

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旅した地に関連する本を読んだり、映画をみたりするのを老後のたのしみとしていて昨年夏のウズベキスタンへの旅がこの映画との出会いをもたらしてくれた。

昨年末の北イタリア、ことしはじめの南イタリア再訪は辻邦生『背教者ユリアヌス』を読むきっかけとなり、そこからモンテーニュへと進み、堀田善衛『ミシェル 城館の人』そしていま『エセー』を読んでいる。辻邦生堀田善衛モンテーニュいずれもご縁のなかった方たちとの出会いであり、先日の大連旅行から帰って来てさっそく清岡卓行アカシヤの大連』を注文したのだったが著作目録をみるうちに大部の『清岡卓行大連小説全集』上下巻があるのを知り購入に及んだ。

辻邦生堀田善衛清岡卓行ともに大学ではフランス文学を学んでいて、仏文出身の作家たちとの思いもよらない出会いが続いている。

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「五月の半ばを過ぎた頃、南山麓の歩道のあちこちに沢山植えられている並木のアカシヤは、一斉に花を開いた。すると、町全体に、あの悩ましく甘美な匂い、あの、純潔のうちに疼く欲望のような、あるいは、逸楽のうちに回想される清らかな夢のような、どこかしら寂しげな匂いが、いっぱいに溢れたのだった」

清岡卓行アカシヤの大連』の文章は明晰そして美しい。大連への旅行がなければこの本を読むことはなかっただろう。

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清岡卓行はわたしの故郷高知県とご縁のある作家で、ご両親が高知の生まれだったから徴兵検査と召集は「戸籍上のふるさと」の高知で受けている。ふるさとの実感があるのは大連だったが、日本の植民地で育った植民地二世は根なし草の意識も強かった。

作家がこれほどまでに書きたかった、また作家をしてここまで書かせた大連という街を『清岡卓行大連小説全集』に探ってみたい。

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在職中は健康診断が義務づけられていたから、法律の定める最低限の健康診断を受けた。診断項目は血液検査、血圧、胸部レントゲン、視力、聴力検査くらいだったかな。医学方面の知識のない臆病者はバリウム胃カメラを体内に入れるなんてとんでもない、事故だって皆無ではないからと受診しなかった。宿泊を伴う詳しい健診もあり、こちらは毎年のように受ける人とまったく受けない人とが截然としていて、担当者から一度所定の病院に行くよう勧められたが行く気にならなかった。

医者嫌い、病院嫌いではない。医学は大切だし医師には感謝しているから自覚症状があれば診ていただく。しかし自覚症状もないのに診断を受けようとは思わない。早期の発見、治療の重要はわからないではないけれど、早期に見つけてもダメなものはダメで、下手に気をつかうのはいやだ。そのために不利益な事態となっても自身の選択の結果だから甘んじて受ける覚悟はある。

そう思いながらさしたる弊害はなく七十近くまで来たから、ありがたい。長距離レースに出走すると、この年齢で長距離走を楽しむことのできる身体に生んでくれた亡き父母への感謝の気持が湧く。三月の東京マラソンでははじめて当選した高ぶりもあり、目頭がうるうるとなった。

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七月十七日は石原裕次郎の三十三回忌で、これを以て弔い上げ、つまり大々的に法要を営むのは最後となった。折しもTwitterでフォローしあっている「ある収集家」さんが「あいつと私」(中平康監督1961年)のポスターをアップされていて(写真はその引用です)、懐かしい気持から「小学生のとき母に連れられてみました。母と二人での映画はこの作品だけだったと思います。母の遺品に大部の裕次郎のCD全集があり彼のファンと知りました。私は高校生からの酒井和歌子ファンで、ビデオの時代に再見して彼女が出ていたのは、おっ!でした。貴重なポスター、多謝」と返信した。

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モンテーニュは四十五歳のとき腎臓結石の激烈な痛みを覚え、そのとき自分のことを「自慢になるかもしれないが、死の恐怖から免れた精神をもち、医学が吹き込むあの脅迫や、診断や結末などにとらわれない精神をもった人」と自覚した。

わたしはモンテーニュのようなタフな精神の持主ではないが、健康診断の数値を指して酒を控えろ、運動をせよなどといった「医学が吹き込むあの脅迫」はお断りで、料理と酒をおいしく味わうのを阻止しようとする検診や医療のあり方には疑問を覚えている。

これまでのところそうしたご指導を受けたことはないけれど、人生最後のたのしみは口腹にあり、と考えているので料理と酒についてあれこれ制約を受けるのは避けたいし、それに体調が悪ければ酒も料理も旨くなく、おのずと控えるようになるから自然の流れに任せておけばよいと考えている。何事によらず、わざわざ先回りされて、たのしみにちょっかいを出されたりされてはたまらない。

モンテーニュは、病気そのものよりも治療が煩わしく、食事療法という拘束はかえって健康をむしばみ、そこなうと考えていた。だから、健康なときも、病気のときも、医者の言葉より自分の欲望を優先した。

「結石をわずらっているのに、さらにカキを食する快楽を断つなどというのは、ひとつですむ病気をふたつにしているようなものだ。片側から病気に痛めつけられ、もう片側から規律に痛めつけられるのだから。どうせ、まちがうかもしれないのだから、むしろ思いきって、快楽を追いかけてみたい」

「もし、あなたのかかりつけの医者が、あなたに眠ることはよくないと言い、葡萄酒やあれこれの食べ物を禁じても、気にすることはない。私がそれと反対の意見をもつ、別の医者をさがしてあげるから」。

『エセー』にあるこれらの所論を読み、わたしはますます意を強くした。

好みの本を大別すると、未知の世界やものの見方、考え方を教えてくれるものと、書き手の考え方や感性に多大の共感を覚えるものとがあり、わたしにとって『エセー』は後者の要素が大きい。

「そもそも、この人生においての、わたしの第一の仕事は、せわしなく生きることより、むしろ、ゆったりとくつろいで生きることではないか」。

こうした人生観への共感がこの本を読む原動力となっている。「この命なにを齷齪(あくせく)」、あまり目の色を変えたり、まなじりを決したりしていると心身によくない。これほど納得と共感を覚える読書はめずらしい。