「すばらしき世界」

現代の日本映画にたいするわたしの不満の最たるものは、感情の昂りとともに大声をあげ、どなり、わめく、そうしたシーンの多いことにあります。ある役者さんなど予告編でお会いするたびにどなりまくっている。その方を批判しているのではなく、感情の昂りを言葉の荒々しさでしか表現しようとしない演出者の人間観を問いたいのです。

もちろんわめいたり、叫んだりしてドラマを盛り上げるのも必要でしょう。しかし、いつもいつも帯を解き、裸同然になって感情を露出、否、失禁させている姿は見苦しく、喧々囂々、口角泡を飛ばし、耳を聾すようなことになるのはうんざりしてしまいます。

感情の起伏と声の大小は正比例しなければならないものなのでしょうか。わたしたちの生活はそれほど単純なものではないはずです。お葬式を悲しく、婚礼を愉快に描くといった図式からは小津安二郎監督「秋刀魚の味」にあった、娘の結婚披露宴の帰り、父親が礼服のままで行きつけのバーへ立ち寄ったところマダムが「お葬式のお帰りですか」と訊ねる微苦笑をともなう感情の動きは期待するべくもありません。

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「すばらしき世界」は人生の大半を裏社会と刑務所で過ごした主人公三上正夫(役所広司) の更生をめぐる物語なのですが、作劇の素晴らしさとともに思ったのは主人公も共演陣も「叫び」と「ささやき」が見事にコントロールされている、その語り口でした。身元引受人の弁護士の妻、梶芽衣子が歌ううたも含めて。

ここで人々は、叫ぶべきときに叫び、ささやかなければならないときにささやき、感情を爆発させるシーンにもふだんわたしが覚えている不自然でとって付けた感じは皆無でした。人は喜怒哀楽の気持をコントロールできないときに叫び、声を荒げるのです。それはあたりまえ、まっとうなことなのに、なんだか現代の日本映画への反逆のように映りました。

そのベースには西川美和監督の人間観そして人間関係の捉え方があります。元受刑者の再出発をテーマとするこの映画は、一面で感情のコントロールに苦しむ男の物語であり、そこにはコントロールを失ったヘイト、またSNSでの誹謗中傷といった世界の普遍的な問題も迫って来ています。

物語の結末は伏せておかなければなりませんが、時間の経過とともにわたしの胸にきざしたのは金子正次が別れた妻と娘への未練から堅気になった男を演じた(脚本も担当)「竜二」(川島透監督)でした。とくに結末が気になりだした後半は「竜二」が「すばらしき世界」の通奏低音のように響いて、三上が竜二とおなじになるのは避けてほしいと願いながら目を凝らしていました。

(三月三十日ヒューマントラストシネマ渋谷