先日のテレビのニュースの一場面、医療提供体制の不備を謝罪する菅首相に「そんな答弁だから言葉が伝わらないんですよ。そんなメッセージだから国民に危機感が伝わらないんですよ」と蓮舫参議院議員が語気を強めたのに対し首相は「少々失礼じゃないでしょうか」と気色ばんだ。
あのシーンを見た限り、蓮舫議員は気持の高ぶりと声の大きさ、鋭さが比例している方らしく、わたしが連想したのは感情の高揚を絶叫で表現するしかない出来の悪い日本映画だった。誰とは言わぬが予告編でその役者さんを見るたびにいつも叫んでいて気の毒なほどだ。役者が悪いのではなくそうした演出しかできないスタッフの問題で、たとえば二00九年の奇跡的な生還劇として知られるUSエアウェイズ1549便不時着水事故を描いた『ハドソン川の奇跡』を絶叫、怒号大好きな監督で映画化するととんでもない作品になってしまっていただろう。クリント・イーストウッド監督のあの映画で機長役のトム・ハンクス が絶叫するシーンはなく、機長に求められたのは自身の感情をコントロールして乗客を安全に脱出させる方策であり、感情失禁状態でキャンキャン吠えていてはあるべき方策など望むべくもない。話が映画のほうへ寄ってしまったけれど、わたしは感情激昂タイプの質問ぶりが苦手というだけのことだ。
それでも菅首相の口から「失礼」という言葉を引き出したのはよしとしなければならない。念のため申し上げておくと、菅首相のしゃべり方をまずいと思ったことはない。立板に水の如くペラペラしゃべる御仁とか、慇懃無礼、他人を小馬鹿にし巧言令色を掛け合わせたタイプより好感が持てる。むかし大平正芳首相は、口を開けばアー、ウーというので鈍牛と揶揄されたが、かえって愛嬌があると親しまれてもいた。
そのうえで「失礼」を問題にしたい。国会は与野党の議員が討議討論を通じて法律や政策を決定する場であり、議員の背後には国民がいる。蓮舫議員のいう「そんな答弁」であれ別の答弁であれ、首相にとっては言葉と誠意を尽くして議員及び国民の理解を図り、説得する場でもある。そこでの「答弁は差し控える」「お答えできない」の連発は答弁を求める議員はもとよりその背後にいる国民にたいし「失礼」である。
立命館大産業社会学部の桜井啓太准教授が国会答弁で出た「お答えを差し控える」の回数を調べたところ、直近五年は毎年三百を超える「異常事態」になっていて、なかでも安倍政権下の二0一七年~一九年が毎年五百件と突出している。桜井氏はいつからこんなに国会は答えなくても許される場所になったのか?と思い調べたと語っている。(二0二0年十一月六日朝日新聞)そうして安倍内閣の官房長官だった菅義偉氏は首相に就任すると、さっそく使い慣れた「お答えを差し控える」を連発しているわけだ。
やがて新型コロナワクチンの接種がはじまる。そこまでの段取りや接種後の体調の変化などさまざまな問題が予想されるが、それこそお答えを差し控えられたりすればわたしたちの生命に関わりかねない。
国会で質問する議員、答弁する閣僚、いずれも国民の代表であることを踏まえると、「お答えを差し控える」というその場限りのやり過ごし、討議討論の中抜きが国民の無視につながるのはいうまでもない。
議会はたんに賛否を問う場ではなく、議員の先生方が自由闊達に意見を出し合い、存念を語り合い、討議討論を通じて説得を試み、ときに異なる意見を組み合わせて合意形成を図る場であり、それを可能にするのは言葉のやりとりである。その意味で「議会政治は『申しがら』の芸でたつ」「議会政治は人類文明の花である」。(京極純一『文明の作法』)
お答えを差し控えていては芸は磨かれず、花は咲かない。