「フレンチアルプスで起きたこと」

三十代の夫婦と子供たち(小学生の一男一女)が一家そろってスウェーデンからフレンチアルプスにスキー旅行にやって来て、豪華なリゾートホテルのスキー場に面したレストランのベランダで昼食をとっていたところ目の前で雪崩が発生した。
大きな雪崩を防ぐため人為的に起こしたものだったが、爆破は予想を超えて大きくその小雪崩がベランダまで押し寄せてくる。長回しのワンカットで撮ったそのシーンは見事なもので、記憶に残る映像となったが、それはさておき、混乱は短時間で収まり被害はなかったものの、いっとき客をあわてさせた雪崩の予防接種ではあった。
そのとき子供たちは硬直してしまったのだろう、妻はかれらとともにテーブルの下で雪を避けた。彼女自身も動けない状態にあったのかもしれない。
まもなく事態は落ち着き母子がテーブルの下から出て雪を払っているところへ夫が戻って来る。夫は一人スマートフォーンを手にして逃げていたのである。
妻子を見捨てて一人難を避けようとした行動に妻の不信感は募り、子供たちは父親の無責任とともに両親のあいだに流れる空気の変化を察知した。こうして和気藹々だった家族の関係に亀裂が入り、物語はいっぷう変わったサスペンスドラマへと転調し、ヴィヴァルディ「四季」の夏の章のメロディが不安をあおる。

夫は「ごめんね。とっさのことで、気がついたら一人で逃げていた」と素直に口にできない。妻は夫に面と向かって「どういうことなのよ」と感情をあらわにしない。
とりあえずはわだかまりを沈潜させた両者だったが長くは続かず夕食のテーブルで妻の怒りがむきだしになる。おなじテーブルに着いた男女のカップルに夫が「家族みんな無事でよかったよ」と言うと妻は「彼はわたしたちを放って逃げたのよ」と言い放ち夫を針の筵に置く。
これを機に妻は執拗に「フレンチアルプスで起きたこと」を蒸し返して夫をなじる。理想的な父親だったはずの夫の自尊心は完膚なきまでに傷つく。出張旅費の不正使用がばれて人目もはばからず大泣きしたどこかの県会議員のようだ。
性欲を暴風雨とすれば、結婚は堤防で、多くのばあい知性と意思の力で暴風雨は抑制されるが、ときにコントロールに失敗することもある。大にしては「生物としての人間」と「文化という制御装置をもつ人間」とが齟齬をきたす。
雪崩を前にして妻子を置いて逃げたご亭主もその一例で、不倫が多く熟慮の期間があるのにたいし、こちらは瞬間的な判断による行動であり、その点では生存本能という暴風雨は性欲以上に制御はやっかいだ。そして生存本能にたいする「文化という制御装置」は一家を守るのは父親の務め、家族を放り出して自己保身に奔ったりしてはならないという観念である。
「生物としての人間」の立場に立てば、別の場面では妻だっておなじ行動をとるかもしれない。妻の腹立ちはもっともだが「生物としての人間」からは逃れられないのだから寛容と忍耐で夫に接してあげたらとわたしは思ったのだけれど、甘いかな。
リューベン・オストルンド監督の本作は昨二0一四年第六十七回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で審査員賞を受賞した。そのユニークさにおいてまさしく「ある視点」にふさわしい。おなじ状況で妻が夫と子供を置いて逃げたとするとどうなるのか、もうひとつの「ある視点」の物語もおもしろそうだ。
(七月九日ヒューマントラストシネマ有楽町)