「恋人たち」

おどろいた。光石研木野花リリー・フランキーといった実力派の役者陣がよい意味で喰われている。喰ったのはいずれも寡聞にして知らない名前の篠原篤、成島瞳子池田良といった方々で、なんの情報もないままスクリーンに観たのは凄いキャストによるリアルというより生々しい現実だった。
見知らぬ三人は橋口亮輔監督自らがオーディションで選び、それぞれのキャラクターを活かしてアテ書きしたとあとから知った。寡聞でなくても知らなかったわけだが、それはともかく、重要なのはかれらの活かし方で、「飲みこめない想いを飲みこみながら生きている人が、この日本にどれだけいるのだろう。今の日本が抱えていること、そして『人間の感情』を、ちゃんと描きたい」、そのための方法論は斬新というより定石への異議申し立てだった。

通り魔事件で妻を失ったアツシは橋梁点検の仕事をしながら悶々とした日々を送っている。割り切れない思いは裁判に向かうが、見通しははっきりしない。
相談した四ノ宮という若手弁護士は同性愛者にして実績重視のエリート志向、アツシをはじめ来談にやって来る人たちへの誠意や共感はなきに等しい。
もう一人の瞳子は夫からの無視や同居する姑との不和を、職場の同僚と皇太子妃に関する情報を交換したり手すさびでマンガの原作を書いたりすることでまぎらわす。そうした生活のなかに突如現れた男に心は揺れた。
三人とかれらをとりまく人間の生活がモザイクのように組み合わされ、織られてゆく。世の中には良い馬鹿と、悪い馬鹿と、質(たち)の悪い馬鹿がいるとのセリフがあった。そうした世間を紡いだ物語に漂うのは飲みこめない想いを飲みこんでなお行き場のない喪失感や怒り、わだかまり、不安、孤独。
想いを言葉にして目の前にいる相手に訴えても殆どまともな反応はなく、コミュニケーション不全に陥るばかりだから一人でつぶやいて気を紛らわすほかない。けれど言葉を発しているうちに、ときに相手の誤解に発するやりとりも含めて意思と感情が往来する。生々しく厳しい現実にかすかな甘さが漂う。この香りをわたしは肯定、いや讃えたい。
印象的なショットに、ビルの間から覗く青空があった。小津作品の丸の内のビル群の間に見える空によく似ていた。ただしアツシが仰いだのは橋梁点検用のボートからで、そこは「川の底からこんにちは」の川底だ。
絶望は虚妄だ、希望がそうであるようにと言ったのは魯迅だった。おなじ賭けるなら「川の底」の絶望ではなく、ほのかな甘さの希望だ。
(十一月二十四日日テアトル新宿