新コロ漫筆~感染症につけ入る隙

嫌いなものと問われてすぐに思い浮かぶのは健康診断で、在職中はやむなく法律で定める最低限の健診は受けたものの、胃検診や宿泊付きの詳しい検査には見向きもしなかった。症状がないのに胃にバリウムやカメラを入れられてはたまらない。

自覚症状がない限り病院には行かず、これまで特段のことはなかったからありがたいことこの上ない。ただし健康ですかと問われてはい、と答える自信はなく、健診を受けていないから身体に何が潜んでいるかわからない。

それでもわたしは 早期発見早期治療よりも「知らぬが仏」を選ぶ。仮に重い病気に罹り、健診の有無と因果関係があったとしても自己責任としてあきらめる。そのうえで行き着くところまでは美味いものを喰い、好きな酒を飲み、本と映画と音楽に親しみ、長距離レースを走る。そして健診を受けなかったことを後悔せず粛々と諦念をかみしめる。

余談になるがそんなわたしも一昨年MRIを含む脳についてのいろいろな検査をした。健診ではなかったが内容はおなじようなものだろう。某大学病院の事務方の知り合いに頼まれて、高齢者の認知症についての研究の臨床実験台に上がりデータを提供した。一日一万円の謝金を下さると聞くと、たちまち応じた。お金ですぐ転んでしまう健診検査嫌いである。

閑話休題

「人間万事天命のいたす所なり。花魁にして孕むものあり、戦争に行つたとて十人が十人死ぬものと限らず、直る病は打捨つて置いても直るなり」「医者は建築家にあらずして修繕の大工なり。下手な大工来たりて無闇に土台の根つぎなぞすれば建付け却って悪くなる事ままあり」と永井荷風が随筆「何ぢややら」に書いている。

わたしの健診嫌いもここに通じていて、これからもこのスタンスを維持していきたいと願っているけれど、感染症には別の事情が絡む。

落語の「死神」では蝋燭の一本が人の寿命であり、火が消えるとき寿命は尽きることになっている。どんなにあがいても火が消えるときは消える。感染症が火を消すのも天命である。しかし生来の体質の影響が大きい生活習慣病なんかよりも感染症はつけ入る隙が大きいのではないか。感染防止に努めればひょっとして火が消えるのを先延ばしできる、天命を修正できるかもしれない。ときに間抜けな死神もいるのだから。

それに努めるといっても手洗い、うがい、マスク、三密を避けるなど簡単なことばかりで、酒や煙草を止すよりずっとやさしい。なかには会食を自粛するとストレスが溜まるという困った人もいるそうだが、なに、そういう手合には近づかず、放っておけばよろしい。