久しぶりの日本橋

十月になったので、若月紫蘭『東京年中行事』(明治四十四年刊)の十月の項を開いたところ「月始めより団子坂、国技館、花屋敷など、菊人形開園す」とあり、運動会、ボートレース、修学旅行などに触れたあとに「初旬より中旬にかけ一週間図書せり市立つ」という記事があった。いつのころから読書の秋とか、本の売り立ては秋の商戦にふさわしいとされたのだろう。

菊人形については永井荷風が「東京年中行事」(大正七年)の十一月の項に「菊花この月下旬に至るまで爛漫たり、近年日比谷公園盛に菊花を栽培し両国国技館また浅草公園花屋敷と競つて年々菊人形の意匠を凝せしより団子坂の名今は全く忘れつくされたり」としるしている。

この背景には企業の参入があり、漱石が『三四郎』に、鴎外が『青年』に描いた団子坂の菊人形は大正になると「全く忘れつくされたり」状態となった。『東京年中行事』が刊行された明治四十四年は昔ながらの植木屋職人による菊人形から、企業が運営する催しへの転換期にあたっていたわけだ。もっともわたしには姿はみられなくとも菊人形といえばご近所の団子坂である。

ついでながら 岡本綺堂「置いてけ堀」(『三浦老人昔話』)によると秋の団子坂の菊人形と相対していたのが夏の大久保の躑躅で、こちらにもいろいろな人形細工がこしらえられていた。

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十月四日、東京都の新型コロナ感染者八十七人。このまま減り続けて収まってほしいと願う。

この日、自民党岸田文雄総裁が衆参両院本会議の首相指名選挙で第百代、六十四人目の首相に選出され、岸田内閣が発足した。新首相は同日夜に記者会見に臨み、政権を「新時代共創内閣」と名付け、「私が目指すのは新しい資本主義の実現だ」と述べ、成長戦略とともに富の再分配を重視する考えを強調した。

目先の抱負もけっこうだが、安倍、菅内閣が傷つけ、損なった日本の民主主義の修復をも願っておきたい。こちらは意を決すればその日からできる。その内容については田中均氏(元外務審議官、現在日本総研国際戦略研究所理事長)が、安倍、菅内閣に共通する特質について「説明しない」「説得しない」「責任をとらない」 の3Sであると指摘していて、わたしとしてはわが意を得た思いである。

その田中氏が先日「国会議員の皆さん、どう説明しますか?G7中、日本は一人当たり国民所得は最低位にかかわらず、国会議員の報酬は最高位。英国やドイツのほぼ倍。私は英国やドイツの国会議員を良く知っていますが、多くが庶民の感覚を大事にする普通の人達。日本の議員の『選ばれた人』感を感じることはありません」とツイートしていた。

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十月五日。日本橋室町のコレド室町にあるTOHOシネマズのシネコンで「空白」をみようと上野から銀座線で三越前で降り、映画のまえにまずは散歩をしたあとスターバックスで読書と音楽に親しんだ。

昨年四月にはじめての緊急事態宣言が発せられてからここへは足を運んでおらず、久しぶりに街並を眺めた。人通りは淋しくはなく、賑やかすぎることもない、過度な装飾のない落ち着いた繁華街に一年数か月ぶりに再会してこんないい街だったかとしみじみとなった。

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衣替えのころにしては気温は高く、青空の下で短パンTシャツ姿での街歩きは気持がよい。お昼休みの時間帯で午後の仕事に備えて休息している人が多い。和服姿の女性はお店の従業員だろう、いかにも日本橋である。ちょっとひと休みできる腰掛が小さな公園やビルの周囲に設けられていて心地よいスペースを提供してくれている。

スタバで珈琲を飲んでいるうちに、雨の日であればこのエリアに似合いだろうと「黄昏のビギン」をいくつかのヴァージョンで聴いた。

そうそう「空白」は万引きを疑われスーパーから逃走した女子中学生の交通事故死をめぐるドラマで、事故のシーンでキュンとなってからは緊張のしっぱなし。古田新太松坂桃李の息詰まる演技に、ちょっとピンボケふうな寺島しのぶが絡む役者陣も魅力だった。

仕事でやむなく乗っていた車を退職後すぐ手放した車嫌いのわたしははじめパスしようかと思ったが評判のよさに釣られてよい作品にめぐり会った。

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十月十日。柳家小三治さんが心不全で亡くなったニュースに驚いた。命日は十月七日、享年八十一。 七日午後七時半ごろ、小三治さんが自宅二階の自室で倒れているのを奥様が発見し、救急車で都内の病院に運ばれたが同八時に死亡が確認された。 今月二日、東京・府中の森芸術劇場柳家一門会」での「猫の皿」が最後の高座となった。

小三治さんの高座に接したのは二度で、一度は遠い昔で記録は取ってないが、もうひとつのほうは二0一四年九月十四日のあきる野市きららホールでの独演会で、演目は「初天神」と「野ざらし」だった。

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そのときのまくらを以前に書いたこのブログの記事( https://nmh470530.hatenablog.com/entry/20141030/1414626766 )から引用しておきます。

ゴルフに凝っていた志ん朝さんが小三治さんにゴルフを勧めた。そのころボーリング一筋だった小三治さんが「あんな貧乏人のやるゲームはお断りですね」と口にしたところ「どこが貧乏なんだ!」と憤懣の反論が返って来た。

「だってそうでしょう、庭のねぇ家に住んでるもんだから、わざわざ他人の庭にまで出張ってプレーしてるのがゴルフじゃないですか」。

すると志ん朝さんが「何だって、それじゃあてめえがやってるボーリングなんか、家に廊下がないもんだから他人の屋敷まで出かけてそこの廊下で大きな玉転がしているんじゃねえか」。

小三治師匠云く「といった次第であっしが負けましてね、とうとうゴルフはじめちゃったってわけなんです」

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下野足利に壮年の頃から禅に帰依する布屋なにがしという方がいて、七十余歳で臨終を迎えたとき、禅師から

「かなでいふいろはにほへと聞こえたかそれですまねば我ゑひもせず」と示され

「ちりぬるをわが身ひとりと思はねばあさきゆめみしゆめの夢の世」と応じて辞世とした。

この挿話を『一話一言』に書きとめた大田南畝は、かく詠めたのは年来生死を考えていた証だと述べている。

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下流年金生活者はずいぶん図書館のお世話になっている。かねてより不思議に思っているのだが、予約してある本がドドーンと一挙に来る傾向がある。もちろん同時期にリクエストしたものではないが三十人待ちと三人待ちの本がおなじときに連絡がある。贅沢をいってはいけないけれど一週間か十日に一冊のペースであればよいのに。 

いま机上には予約してあった三冊が積まれてある。書名は略すが、分量はおよそ五百四十頁、三百八十頁(これは二段組)、二百五十頁で、借りられるのは原則二週間だから、二週間三本勝負である。ホームグラウンドの自分の本はしばらくお預けにしてビジターに徹しないといけない。

小遣いでいちばんお金を使ったのは本で、つぎにCDだったが比較にならない。年金生活に慣れて本を買わなくなれば家計はずいぶん助かるし、IT技術の発達でCDを買わなくても音楽は聴けるようになったから理屈のうえではもっとゆとりができるはずだが思惑通りにはゆかない。

出版不況がいわれて久しい。出版社の幹部による図書館のあり方への疑問も知っている。わからぬでもないがこれまで本に多くのお金をかけた者としては退職で収入が減ったのだから図書館の利用には寛容であってほしい、といわざるをえない。

もうひとつお安く読める読書として、著作権の切れた作品をネットに公開してくださっている青空文庫の活動がある。ありがたく感謝するばかりだが、これって本来は国の仕事だろう。文科省は小中高校に「朝の読書」を呼びかけているが、かけ声ばかりが能ではない。

それはともかく、読書のあとは晩酌が待っている。在職中はとくに食について考えることはなかったが、退職すると家飲みがうれしく、自分でも工夫を凝らしてつまみを料理してみようという気になるなど食への関心は増すばかりである。 

「ものがわかる心の持ち主は、味覚もわきまえていなくてはならない」(キケロ『善と悪の究極について』)

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NHKBSPで放送のあった「アウトブレイク」をみた。感染症がもたらすパニックスリラーで、不覚ながらわたしはこの映画を知らなかった。一九九五年の作品で、そのころひょっとすると感染症の話なんかいやだなとパスしたのかもしれない。もしも新型コロナ禍がなければ今回も流したかもしれない。

「その時代時代に、順を追って作品を見てきたぼくたちと、名画座やビデオで後からまとめて見た《映画ライター》たちと、見方が食いちがうのは当然ですが、映画というのは、作られた時代のムードがわからないと、理解できない、とぼくは思う」(小林信彦『映画が目にしみる 完全増補版』文春文庫)

小林信彦さんの議論に異論はないがときに公開時より別の時期がふさわしい作品があり、わたしには「アウトブレイク」はそのひとつとなった。

アフリカ奥地で発生した未知の伝染病が米国に入り、厳戒の防護措置が取られたがウィルスはある地方都市に侵入し、街は完全に隔離!はずかしいがつい昨日までそうした話はSF、空想科学小説くらいに思っていた。

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TOHOシネマズ日比谷で「MINAMATAミナマタ」をみて胸が熱くなった。上映終了とともに数カ所で拍手が起こった。観客をして粛然とさせずにはおかない力のある作品だった。ユージン・スミスが来日して水俣で活動をはじめたのは一九七一年、そのころ大学生だったわたしが関心のあったのは文化大革命パリ五月革命、公害だった。

ただ公害といっても水俣病を引き起こしたチッソをはじめとする公害企業に対する糾弾や、公害と社会的費用という経済学の問題にとどまり、ユージン・スミスが撮った水俣で生きる患者たち、胎児性水俣病患者とその家族の痛みの理解には届いていなかったとこの映画で痛感した。

エンディングのテロップでは世界の公害やフクシマを含む惨事が紹介されていた。わたしは知らなかったが、なかに二0一三年に水俣市で開かれた「水銀に関する水俣条約」外交会議の開会式に寄せた「日本は水銀による被害を克服した」との安倍首相のメッセージが紹介されていた。いまなお水俣病で苦しんでいる方々への視線があれば口にできる言葉ではない。福島原発事故についてもこの人にかかるとすでに影響はなく「アンダーコントロール」の状態にある。

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まちがっているかもしれないが、わたしはタリバン政権はアフガニスタン国民の意思の表れだと考えている。かれらには米国の支援を受けたガニ前大統領の政権かタリバン政権かの選択肢があり、結果タリバンを選択した。その点、国軍によるクーデターで政権選択の機会が封じられたミャンマーとは異なる。

タリバンが暫定政権を樹立したアフガニスタンで経済政策の不備や政府資産凍結などを背景に、国民生活の混乱が続いていて、世界食糧計画(WFP)によれば、国民の95%が十分な食料を取れず、飢餓の危機に直面しており、過酷な冬を前に、国連や国際支援機関などが人道支援を急いでいるとのニュースがあった。

人道支援を不要とするのではないが、タリバン政権の危うさも織り込んだうえで国民は選択したのではないか。第二次世界大戦後の中国、国共内戦中共が勝利し国民党は台湾に逃れた。つまり大陸の中国人民の多くは中共による統治を選んだ。アフガニスタンタリバン政権についてもおなじことがいえる。

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NHKBSPで放送のあった「無法松の一生」(昭和18年稲垣浩監督、阪東妻三郎園井恵子)をみた。何度目かの視聴で、今回は4Kデジタル修復版である。

なかで、旧制中学四年になった「ぼんぼん」吉岡敏雄が祭りの夜に喧嘩に行くシーンがあり、母のよし子が心配して無法松に相談する。松五郎が相手はと尋ねると、よし子は、日頃の言動からすると、たぶん師範学校の生徒だと思います、と答え、松五郎は喧嘩の現場に駆けつける。明治三十年代後半の話だ。

夏目漱石『坊つちやん』にも旧制中学生と師範学校生が喧嘩する場面があり、こちらは日露戦争の祝勝会の夜の出来事だから明治三十八年(一九0五年)で、両校は犬猿の仲だった。

漱石は中学校と師範学校はどこの県でも仲が悪いと書いていて、 師範学校生の多くは公費助成を受けていて、中学校側から師範学校に「地方税」のヤジが飛んでいた。どうやら中学ー高校ー帝国大学vs尋常師範学校(小学校教員養成)はのちの文部省と日教組の対立の原型を示しているようだ。

詳しくは本ブログ(https://nmh470530.hatenablog.com/entry/20150330/1427674727)を参照してみてください。

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「シロクマの頭数はここ十年くらいのあいだに30パーセントほど増加したし、夏に北極の氷が溶けてなくなる気配はない。マスコミは危機を煽る科学者の声だけを取り上げて、反対意見の科学者の声をほとんど全く無視している」。池田清彦『どうせ死ぬから言わせてもらおう』(角川新書)より。

かねてより池田清彦の著書は愛読していて、政治、経済、社会についての議論は首肯し賛成することが多いのにたいし判断のつきかねているのが地球温暖化をめぐる所説で、「世界の科学者の間では、最近とみに人為的地球温暖化論は怪しいと考える学者が増えてきた」と氏は述べている。

他方、先日ノーベル物理学賞を受賞した米プリンストン大の真鍋淑郎氏をはじめとする三氏はコンピューターを駆使し、大気と海洋の循環を考慮した気候変動のモデルを開発、温室効果ガスに注目し地球温暖化に関する研究を続けた先駆者としての業績が評価されたというのが受賞理由だった。

新聞、テレビの熱心な読者、視聴者ではないと断ったうえでいえば、ニュースやドキュメンタリー番組で地球温暖化論に反対する見解が報道され、紹介された記憶はない。異なる見解をめぐる論争、他流試合が必要なのだ。

岸田内閣発足とともに自民党副総裁となった麻生太郎氏は選挙演説で「暑くなった、温暖化した、悪い話しか書いてないけど、温暖化したおかげで北海道のコメはうまくなったろ?北海道米は昔は厄介道米って言われてたじゃないの。それなのに今はコシヒカリだ、コチピカリだ、ねえ、なんか怪しげな名前だけど、おぼろづきとか名前をくっつけて金賞をとって、その米を輸出してんだよ」と訴えていたが、こうした与太話や放言じゃなくて地球温暖化論者とそれに反対する学者の本格的な論争に期待したい。

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「目の前のことがらの重圧に埋もれてしまい、そうしたごたごたから、すっきりと抜け出て、そんなことなどほったらかしにして、あとでまた取り上げるということができないとしたら、それは小心者というしかない」。

モンテーニュの語る人生の知恵で、重圧ではないが選挙戦のニュースをみない日は心がスッキリする。

選挙になるとヴォルテールカンディード』(斉藤悦則訳、光文社古典翻訳文庫)のなかで、ある学者がフランスの演劇について批評する場面を思う。

「眠気を誘うような政治談義か、人を不愉快にさせる尊大な発言。あるいは、何かに取りつかれたように野蛮にわめきたてられる夢想、あるいは脈絡のないおしゃべり、あるいは人間にたいする話し方がわからないので神を相手にしての長広舌、あるいはデタラメな格言、あるいは月並みな文句のぎょうぎょうしい羅列」。

こうしたことを繰り返しながらも、何か光るものがあればよいと思いながら報道に接するようにしてきたけれどだんだんと気力は衰え、それとともにうえにあるような嫌味皮肉に惹かれる気持が強くなってきている。

かくして十月三十一日の投票日を迎えた。結果は自民党一強体制の継続で、補完勢力の日本維新の会が大きく躍進した。

わたしは政治におけるファインプレイに期待することはないが、フェアプレイの精神は貫いてほしいと願っている。すなわちルールを正確に理解し、守るよう努力する、自分も他人もけがをしないで安全にプレーすることで平和、自由、平等を創るいとなみである。しかしながらいわゆるモリカケサクラにみられるようなアンフェアな事態が頻発したのが近年の日本の政治で、傲慢な権力行使がチェックされる拮抗した院の構成を望んだが期待外れに終わった。自民党が強すぎるのか、野党が愚かすぎるのか。