「オールド・ナイブス」

お気に入りのスパイ・ミステリーでどちらかというと地味系でシブい作品が映画化されるのはとてもうれしい。たとえば先ごろ公開された「オペレーション・ミンスミート ナチを欺いた死体」。原作は小説より奇なるノンフィクション、ベン・マッキンタイアー『ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』。

そしてこの四月八日からAmazon Prime Videoが配信している「オールド・ナイブス」(ヤヌス・メッツ監督)。原作のオレン・スタインハウアー『裏切りの晩餐』はここ数年に読んだスパイ小説ではわたしのベストです。

ここでは「オールド・ナイブス」を取り上げます。つまり原作ではなく映画に即して紹介します。

二0一二年ウイーン空港でトルコ航空機127便がハイジャックされ、犯人と百人を超える乗客全員が亡くなります。じつはハイジャックの数時間後CIAウィーン支局に「犯人は四人、銃は二丁、後部の着陸装置からの突入がよさそう」とメールが届いていたのです。送付したのは偶然乗り合わせたCIAの連絡員でした。ところが、どうしてか彼の存在は犯人たちの知るところとなり、したがって後部の着陸装置からの突入は断念に追い込まれ、事態は大惨事へとつながったのでした。

なぜ連絡員の存在が知れたのか。連絡員に過失があった?それともCIA内部にイスラム過激派とつながる者がいた?疑惑は取りざたされたものの決定的な証拠はなく真相解明には至りませんでした。
八年後、米国が捕らえたイスラム過激派の一人が、事故に対応したCIAウィーン支局に内通者がいたと自白し、名前は口にしないまま死去します。これをうけてCIAによる事故の再調査と内通者=モグラ探しがはじまります。担当するのは事件当時ウイーン支局のエージェントでいまも同支局に在籍するヘンリー・パルヘム(クリス・パイン)。ヘンリーはまず退職者で事件の際は局長補佐だったビル・コンプトンに接触します。彼の机上の電話からテヘランに電話がかけられていたのです。ただしこの部屋は誰でも出入りできました。

ついでヘンリーはビル・コンプトンの直属の部下で、ヘンリーの元恋人、そして事件を機にビルと別れ、CIAを離れたシリア・ハリソン(タンディ・ニュートン)のいるカリフォルニアを訪れ、二人は晩餐の席で向かい合ったのでした。

物語は事件究明にともなう緊張とかつての恋愛感情が絡みあうなか、対話と回想により進行します。息詰まる心理戦でありながら、そこには恋人どうしだった男女の哀感が漂っていて、ここのところがとてもよく表現されています。機会があれば劇場のスクリーンでも観てみたいわたしの偏愛の一作です。

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せっかくですから原作『裏切りの晩餐』についても少し触れておきます。

チェチェン紛争が勃発した際、ロシアで工作員をしていたヘンリーは同僚のCIA職員から「ヘンリー、これから何が起こるかわかるよな?俺たちが騒がなかったら、ロシアはチェチェンに深く入り込んでいく。そしてチェチェン共和国が崩れ落ちるまで撃ち続けるだろう」と声をかけられます。このとき『裏切りの晩餐』のCIAの一部はここまで認識していたのです。

にもかかわらずヘンリーは「我々はロシアを支援し続けた。命令に従い、私はロシア連邦庁を助けて、アメリカ国内の反プーチン・親チェチェンの運動家を特定した」と独白しなければなりませんでした。「俺たちが騒がなかったら」どころかプーチンを支援していたのです。ここからは前世紀末のチェチェンをめぐる事態から西側は何も学んでいないことが推測されます。

一九九四年から翌々年にかけてのロシア軍とチェチェン独立派武装組織との戦い、これに続くジョージアとロシアの戦争、そしてロシアによるクリミア半島侵略。ヘンリーはチェチェンでの出来事を思い出すことで、次に起きたことを変えられたかもしれない、「おそらく私はその兆候をもっとうまく読み取るべきだったのだろう」とつぶやきます。

ロシアによるウクライナへの侵略が続くいま、この言葉には切実なものがあります。

ベン・マッキンタイアー『ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』。

小林朋則訳、2011年中央公論新社。原書は2010年刊行。本ブログに書評がありますのでよろしければ参照してみてください。

https://nmh470530.hatenablog.com/entry/20150725/1437780836

オレン・スタインハウアー『裏切りの晩餐』

上岡伸雄訳、2015年岩波書店、原題「ALL THE OLD KNIVES」。こちらも本ブログに書評を載せています。

https://nmh470530.hatenablog.com/entry/20160620/1466384046)。