新しいライフスタイルの発見

外出自粛という籠居だが医療スタッフ、スーパー、コンビニ等生活必需品のお店の方々、物流従事者、清掃局の職員といった方々を思うとなにほどのこともない。それにジョギング、散歩が禁止されていないのはありがたい。先日、山中伸弥先生がYouTubeでジョギングのときもマスクやバフをつけるようにとおっしゃっていたのでさっそくそうするようにした。

本は喫茶店で読み、映画が好きでよく映画館に足を運び、テレビの前にいるのが苦手でじっとしていられないタイプだけれど、いざ外出自粛に突入してみると塞ぎも閉口もなく門外不出(大げさ)を続けている。わたしは『徒然草』『方丈記』など隠者文学のファンだからな、とみょうな自己肯定感が湧いてくる。

いちばんの難は、一日おきの晩酌が恋しくて、待ち遠しくてしかたがない。今晩のつまみを思ったりすると心がときめくほどだから精神的には依存症だろう。自粛生活で晩酌の楽しみは増すばかりだ。いまは健康とマラソン大会を勘案して一日おきとしているが、さいわい生き延びたとしてあと五年先には後期高齢者となり、そのときフルマラソンは走れないかもしれず、そうなるとタガは外れて毎日心おきなく晩酌するような気がする。それに七十五歳ともなれば、あとはどうなとなれとの思いも強まるのではないかな。

長年親しんできた本と酒と映画、それにこれまでよりいっそうテレビと親しくなった。

朝のジョギングと夕方の散歩のよろこびもひとしおだ。楽しみや愛のためでなく、生きるために生きるのはいやだなと考えていた。いま緊急事態宣言のもとにあって、生きるために生きている感があるが、まったく嫌気はない。むやみに刺激を追い求めたり、振り回されたりしないいまは人生の深呼吸のとき、もしくは刺激の度合を少なくした新しいライフスタイルを発見しているときだ。

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いまは世界各国の首脳、リーダーが新型コロナ感染症というおなじテーマに取り組んでいてそれぞれの政策とともに個性や特質がよくみえる。

危機のなかにあって指導者が果たすべき大きな役割として人々を勇気づけることがある。その点でチャーチルド・ゴールの評価は高かった。ヒトラーも卓越した演説力で国民を鼓舞したのは認めざるをえない。

全米各州のうちもっとも被害が大きいニューヨーク州のクオモ知事をみていると人々を勇気づけようと努力している感じを受ける。いささか蛮勇気味だがトランプ大統領もそこのところは意識しているみたいだ。ドイツのメルケル首相と台湾の蔡英文総統、ニュージーランドのアーダーン首相からは的確な判断力と政策実現に向けた推進力をもつ指導者との印象を受けた。

旧聞に属するが東京五輪大会組織委員会森喜朗会長が日本ラグビー協会会長だった当時、来日したオーストラリア代表ワラビーズが表敬訪問をした、そのとき森氏は、日本はワラビーズと百年対戦しても勝てそうにないと挨拶した、お世辞のつもりだったかもしれないが、これではジャパンの選手、ファンはしらけるだけで、人々を勇気づけられないのは指導者の資質を決定的に欠いている。

安倍首相はどうか。率直にいっていまの危機にたいし指導力を発揮しようとしてもこの人については、森友、加計学園東京高等検察庁検事長の定年延長問題などこれまでの曖昧と虚偽の蓄積が大きく、三密の回避や対人接触の八割減の訴えはよいとしても、この首相を信頼して問題に立ち向かおうという気にはなれない、というのがわたしの判断である。これまでいろいろあってもいまは首相の舵取りに期待しようとはならず、それだけいろいろの問題がわだかまっている。

公文書の改竄や廃棄について百歩下がって首相の指示はなかったとしても、そうした問題に誠実かつ毅然たる対応をしてこなかったのは否定できない。その首相が新型コロナについては真摯に取り組んでまいりたいといっても冷ややかな視線を送るほかない。

それはおまえがはじめから色眼鏡をかけて安倍内閣を見ているからだ、はなから信頼する気がないのだといわれるかもしれない。たしかにわたしはときの政権にたいし批判的態度が強いタイプではある。しかし文句垂れるにも心の片隅に日本の議会制デモクラシーに寄りかかる気持はあったがその気持がいまはほとんど蒸発状態にある。

もちろんそこには首相個人の資質以上に日本の政治構造の問題がある。政策決定過程における内閣および与党内でどれほど突き詰めた議論がされたのか。なんだか思いつきのように飛び出た全国一斉の学校休校、マスクの全戸配布、くわえて特定の世帯への三十万円給付から全国民一人当たり十万円への変更などに議論のありようがみてとれるだろう。

党内において切磋琢磨する批判勢力の不在が議論の質の低さをもたらし、これにだらしない野党といった事情がくわわり、安倍内閣は何をやっても大丈夫という傲慢をもつにいたった。得票数と信頼度がリンクしないのは日本の政治の不幸だと思う。

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外出自粛の賜物で何十年ぶりかに「チャップリンの殺人狂時代」(NHKBS)をみた。すっかり忘れていたが原案はオーソン・ウェルズです。

「一人を殺せば悪党、百万人を殺せば英雄。数が罪を正当化する」はこの映画のよく知られたせりふだが、そういえば「第三の男」でオーソン・ウエルズ演じたハリー・ライムが口にした「だれかがいっていた。イタリアではボルジア家三十年の圧政のもと、ミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチルネッサンス文化を生んだ。スイスでは五百年にわたる同胞愛、民主主義と平和が何を生んだか。鳩時計だとさ」と皮肉と逆説の点で通じている。

ついでながら先日スーパーのレジの方が、お札を出す前に指につばをつける方がいて困る、感染が怖いといっていて、この映画でチャップリンがお札を数える、電話帳を繰るときそれをしていた。感染症が意識になければさほど気にとめなかったシーンで、大げさだけれどこのシーンに注目したのは現在の問題意識による。歴史学や文学においてもおなじ事情があり、いま多くの人々が歴史のなかの感染症感染症を扱った文学に着眼しているはずだ。わたしもいずれカミュ『ペスト』を読んでみよう。

チャップリンのあとは珈琲の時間。これまで三時か四時には喫茶店へ行っていたが外出自粛のいまは自分で淹れる。きょうは珈琲受けとしてヨーグルトに、昨年十二月にマルタ島で買った蜂蜜を垂らし、バルネ・ウィランを聴いた。

近ごろは五時を目途に散歩に出る。不忍通りを上野公園へ向かうか、本郷通りへ出て東大の前を通り上野公園へ行く。とちゅうコンビニでつまみを物色したり、百均で何かを買ったりして二三百円でたのしむ。私的には贅沢な自粛、謹慎である。

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(写真は上野公園の夕景)

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一日延ばしにしていたのだがどうにもならず、緊急事態宣言が出されてはじめて床屋へ行った。理美容店を営業自粛の対象にするかどうかで国と都で議論があったから緊張するのは当然で、短時間の客でこれだからお店の方は大変だろう。家族は、客の少なそうな時間帯を選んで行けというが、そんなことわかるかっ!

通販でバリカン買って、自分で散髪しようと思ったが「どんくさい、日本のわたし」と自他ともに認める当方にできるはずもなく、家族からは、どうか自分でやるのはやめてください、失敗しますと引導を渡された。

ためらいながら、いつもの店へ行くと、客が変わるたびにしっかり消毒してくれていて、マスクをしたまま散髪していただいた。それにしてもおちおち床屋へも行けないなんて、いざ行くのにこれほど緊張するなんて。

いまパチンコ店へ行く人たちはえらいものだな。床屋へ行くのなんか平気の平左だろう。

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「今日の道はよかつた、いや、うつくしかつた、げんげ、たんぽぽ、きんぽうげ、赤いの白いの黄ろいの、百花咲きみだれて、花園を逍遥するやうな気分だつた、山もよく水もよかつた(中略)朝靄がはれてゆくといつしよに歯のいたみもとれてきた」(山頭火日記昭和七年五月二日)。

「あざみあざやかにあさのあめあがり」「穂麦、おもひでのうごきやう」もおなじく山頭火の句で、いずれも自粛のなかでみた美しい五月だ。

その五月は緊急事態宣言の一か月程度延長とともにはじまった。政府の専門家会議は「外出や営業の自粛は当面維持することが望ましい」との提言を発している。また提言では、長丁場を覚悟する「自粛疲れ」を懸念し、ふたたび蔓延が生じないよう「新しい生活様式」の普及などに触れている。

茶店や映画館に足を運ばなくなってひと月あまりが経ったが、これまでのところ専門家会議の先生方が心配しておられる「自粛疲れ」はまったくなく「新しい生活様式」にハマりまくっている。感染症が収まってもう大丈夫となってもこのスタイルを続けてもよいほどだ。順応性が強いんだな。

人生の最大の幸福はよき食慾とよき睡眠にあるという説がある。わたしにはよき晩酌がこの二つを繋いでくれている。ありがたいことだ。

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エリオット・チェイズ『天使は黒い翼をもつ』(浜野アキオ訳)は『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を思わせる一人称で書かれた犯罪小説、というかジェームズ・M・ケインの傑作の美味な二番煎じ、いやいや優れた変奏曲だった。一人称の犯罪小説やハードボイルドはよい意味で自分に酔って書いている気味があり、そこからスパイスの効いた警句めいた文章が放たれる。

「金持ちが死ぬときは、貧乏人が死ぬときよりも複雑だ。金持ちはただ生を終えるのではない。金持ちであることも終える。もちろん、貧乏人にしても、死ぬときには貧乏であることをやめる。だが、それは嘆き悲しむようなことではない」。

「現実のいろいろなことを試み、そのことごとくに失敗した結果、彼らはあんなふうにふるまおうと決意した。女で失敗した。憤然として立ち上がり、雄々しくふるまおうとして失敗した。それで紳士になった」。

自分では意識していないけれどわたしが紳士になったのにもこうした心理の綾があったのかな。

「人生の大半は食べることや寝ること、けっして訪れはしない何かを待つことに費やされる(中略)人生のほとんどは、真に生きる瞬間を待っているだけの時間にすぎない。どうでもいいこと、どうでもいい人々について思い煩うためにあまりにも多くの時間を費やしている」。

ならばよき食慾とよき睡眠を真に生きる瞬間とすればよいのだ。

そういえばレイモンド・チャンドラー『プレイバック』でフィリップ・マーロウエスメラルダという町の警察署長に「私は節を曲げない。たとえ相手が良心的な警官であったとしてもね」といっていて、一人称の犯罪小説やハードボイルドはよい意味で自分に酔って書いている気味というのはこの「節を曲げない」に通じている。よい意味の補足としておこう。