「コロナは来るな」「久松不在」

二0一九年のクリスマスストーリーとしてアガサ・クリスティポアロのクリスマス』を読んだが、それでは収まらず、つづいて「クリスマス・プディングの冒険」を手にした。以前にも読んだことのあるウェルメイドな短篇小説で、「名探偵ポワロ」では「盗まれたロイヤル・ルビー」と改題され劇化されている。「刑事フォイル」のアンソニーホロヴィッツが脚本を担当しており、こちらも優れものだ。

そのあと、前日にiPhoneの機種変更をしたものだから新旧の引継ぎをしなければならず、まずはLINEの引き継ぎをしておくのがよいと聞いてパンフレットを読みなんとかこなした。つぎにアプリを点検したところ、変更した機種に入っていないアプリがけっこうありインストールしてはIDやパスワードを打ち込んでいるうちにうるさくて投げ出したくなった。

「わしはLINEの引き継ぎは絶対できない。店でやってくれ」「店ではできないことになっています」「いくら説明書を読んでもできない」といったやり取りのあげく、お店に引き継ぎをしてもらった高齢者がいたと、たまたま行き合わせた息子が話していた。地方のお店でお客さんが少なかったからよかったが多いと混乱しただろうな。

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外向きについた人の目は他人を見るにはまことに便利で、とりわけ政治家や上司のアラや欠点には義憤、正義も作用して視線は厳しい精査へと向かう。反対に、自身の内へ向かう視線を鍛えるにはナルシシズムも作用するから相当の努力、修練を必要とする。内省や自己反省が得意という人は稀である。そこで自己反省の不足を少しでも改善するために『論語』は「人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」と毎日三度の自己省察を薦めている。

いっぽうで三省を説く儒者には硬直したイメージがつきまとう。あまり反省をしていると硬直したつまらない人生観に行き着くのだろうか。ならば多様さと柔軟さを具えた反省のあり方を思ったのだが、そこから先のイメージが湧かない。

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わたしの二0二0年は古稀を迎えたのと、緊急事態宣言に伴う自粛の年で、自粛ははじめ不安であったが歳末になって振り返ると金はないが時間はたっぷりある老後をゆるやかに過ごした。

さいわい新型コロナ感染症禍のなかにあって新年を迎えることができ、一月二日、ことしの映画はじめとして「バンド・ワゴン」をみた。NHKBSPが年末年始にかけミュージカル映画の名作を連続放送したなかの一本で、毎度のことながらフレッド・アステアの名人芸を堪能し、シド・チャリシーの美しさに見惚れた。

好きな女優さんを三人あげるのは難しいけれど、映画と女優の組み合わせベストスリーとなると「カサブランカ」のイングリッド・バーグマン、「東京物語」の原節子、そして「バンド・ワゴン」のシド・チャリシー、これに「シカゴ」のキャサリン・ゼタ・ジョーンズがつづく。

映画のあとはことしの聴きはじめで「世界は日の出を待っている」をチョイスした。一九八0年ベニー・グッドマンテディ・ウィルソンとともに来日したときの日本武道館におけるコンサートの映像で、ゲンを担ぐというのではないが願いと思いを込めて聴いたあと英語の歌詞を口ずさんだ。「世界は日の出を待っている、薔薇は露を帯びて・・・」

そして寝床で開いた斎藤茂吉の歌集に「くれなゐの獅子のかうべを持つ童子もんどり打ちてあはれなるかも」一首があった。獅子舞はお正月の縁起物のひとつで、角兵衛獅子またの名を越後獅子がよく知られている。そこでふと角兵衛獅子が越後獅子と呼ばれるのはどうしてだろうと思った。

七つ八つからせいぜい十二くらいまでの子供が角兵衛親方の打つ太鼓の音にあわせ、もんどり打ったり、逆立ちして歩いてみせる。獅子の子供の多くは越後つまり新潟県の出だというが、どうして越後は獅子に扮した子供をたくさん輩出したのか。いまも新潟県出身の体操選手は多いのだろうか。まさかね。

ちなみに大好きな美空ひばりの「越後獅子の歌」は昭和二十六年公開の松竹映画『とんぼ返り道中』の主題歌である。

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退職して十年、毎年一度は海外旅行に行っていたのが昨年で途絶えた。気軽に旅行ができるようになればいま一度イタリアへ行きたいなと思いながらツンドクのなかから辻邦生『春の戴冠』(新潮社版)を手にした。ルネサンス期のイタリアを舞台とする小説と知るだけだったが、頁を開いてボッチチェリの友人による画家の回想と知れた。今年の読書はじめである。同書は上下巻合わせると九百頁あまり、二段組活字の詰まった大長篇だがこれまで辻作品に挫折したことはなく、今回も同様であってほしい。

画家をめぐる本は堀田善衛ゴヤ』以来で、詩集と絵画はいちばん似合わないというか苦手の極みだが、それだけ憧れは強い。『ゴヤ』のときとおなじく、よい機会だからとネットにあったボッチチェリの廉価版画集を買ってこれからの読書に備えた。

週刊文春」年末年始号 に載る橘玲「高齢者こそ冒険しよう」に「老後問題というのは、老後が長すぎるという問題なのだから、長く働いて老後を短くすれば問題そのものが消滅する」とあった。わたしは働いて老いの時間を過ごす気はなく「老後が長すぎる」としても貧乏しながらそれを甘受する。老後が長すぎるのは素敵なことじゃないかと長い長い小説『春の戴冠』を読んでいる。

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一月十日。昨日はことしはじめて10キロレース(ヴァーチャル)を走った。成績は0:58:37、386/746。なんとかキロ五分台で走れているが、やがて六分台になるのかと思うといささか落ち込んでしまう。四分台から五分台に落ちたときは寝込んでしまうほどショックだったのが、いまは六分台を心配している。

その昔、他人が書いた本を読むだけではますます馬鹿になりそうで、下手でよいから自分も何か書いてみたいと、ときにエッセイを書くようになった。

読書の意欲はいまも旺盛だが、書く意欲はどんどん減退していて、健康状態が現状のままだとしても後期高齢者になるころには書く意欲は完全蒸発しているかもしれない。もっとも「ものいわぬは腹ふくるるわざなり」も困るなあ。

それはともかく、書く意欲とちがい長距離を走る意欲の衰えないのはうれしい。

何か勘違いしていたのだ。わたしという馬鹿につける薬はないのに、ちょいとものを書いて、その度合をコントロールしようなどと思っていたのだから。

パソコンをまえにして原稿を書くなど無理はせず、面白い小説や映画、TVドラマ、素敵な音楽にどっぷり浸かった晩年でよい、そんな思いへの傾斜が現在進行中である。

昨日の高校ラグビー選手権決勝と明日の大学ラグビー選手権決勝に挟まれたきょうの午後は気だるく、ふと思いついてウディ・アレンが映画で用いた懐かしいジャズを集めたコンピレーションのディスクを聴いたところ、ノスタルジックな思いとともに心が持ち直し、晩酌のひとときにたどり着いたのだった。

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晦日から年始にかけての「村上RADIO」(東京FM)で、村上春樹さんが「コロナは来るな」というてコピーを作ったと語っていた。そういえば『半七捕物帳』の岡本綺堂が、明治二十三年にインフルエンザが大流行したとき「久松不在」とのお祓いを玄関に貼ってある家々があったと書いていた。お染久松は大坂油屋の娘お染と丁稚久松の心中を描いた芝居で知られるカップルで、「久松不在」を換言すると「お染は来るな」で、お染久松のお染を感染症に見立てていたわけだ。

「コロナは来るな」の願いをよそにGoToトラベルを強行し、自分は連日の会食に参加し、国民には「五人以上の会食はだめ」とのたまう総理総裁のもと自民党のエライさんたちは会食が報道されると、一律に禁止したものではないとか感染対策してあるから問題はないと開き直る。 それほど会食をしたければ官邸に仕出し弁当を取ってやればよい。

宮腰光寛元沖縄北方担当大臣にいたっては、富山市内で三十人が参加する懇親会に出席し、飲酒して転倒し救急搬送された。ケジメをつけなければならない事案に対して自民党総裁が注意や譴責を行なったとかの話は聞かない。自分が会食を繰り返しているのでそうもできないのだろう。新型コロナの緊張はどこ吹く風、党内はユルフン状態らしい。

どうあっても会食したければ他人に自粛は言うな!

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第三十三代米国大統領トルーマンの政権下でディーン・アチソン国務長官の発言が政治問題化し、長官は大統領に謝罪した。そのとき大統領は「ディーン、どうせ撃たれるなら、背中からじゃなくて真正面から撃たれろ」といった。覚悟のよさが窺われる「ちょっといい話」だ。

おなじく「男を駄目にするものが三つある。権力と金と女だ。わたしは権力を欲しがったことはないし、金を手にしたことはないし、我が人生におけるただひとりの女は、いまこの瞬間わたしの家にいる」。時代の付いた発言ではあるがお人柄が知れる。

いずれもデイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ1』(峯村利哉訳、ちくま文庫)にみえていて、著者によると内省的な性分ではないトルーマンにとって、政治とは全力を尽くすか否かだった、いったんポーカーの卓に座ったら、配られた手札の中で、最善のプレーを尽くせば、夜もぐっすりと眠れると語っていた。

いまわが国の国会の先生方に寝不足が多くなっているとは聞かないから、会食の酒も手伝ってみなさん最善のプレーを尽くしてぐっすり眠っていらっしゃるのだろう。

トルーマンについてはマッカーシズム、狂気の赤狩りを黙認した人物としてあまりよい印象はなかったが本書を通じて人間的な面での魅力を知った。

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年末に菅首相は手洗い、マスク、感染症対策を徹底し、静かな年末年始をお過ごしいただきたい、と国民に訴え、また、外国からの新規入国を停止する措置について「先手先手で対応するために指示した」と語った。

年が明けて、一月八日からの東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県への緊急事態宣言発令をめぐって、緊急事態がひと月で収まらなかった場合はとの問いかけに「仮定の話にはお答えできない」と口にするのみだった。

答弁は差し控える、お答えできないは毎度のことで、一国のリーダーの姿としては情けないし、真摯な対話のないところによい知慧は浮かぶまい。

それにしても「先手先手」を指示するならば、いろんな場合を考えた対応策が必要だから「仮定の話にはお答えできない」はないだろう。図らずもまったく先を読んでいないことを露呈した格好だ。

先を読むとしても上手くいくことだけを予想している、天気予報でいえば晴れマークの場合しか念頭にないから、雨、嵐への備えはない。GoToトラベルにしても、感染状況に影響するエビデンスはなく、これで経済活性化の一助になるとしか思っていなかっただろう。

「多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない」(ユリウス・カエサル

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できるだけ外出は控えているが床屋はそうもいかず、散髪をしてもらったあとスターバックスに座り、ふとお客さんたちを眺めると若者、中年ばかりで、どうやらわたしが最高齢であった。そのうち外出老人を専門に取り締まる自警グループが活動をはじめるかもしれないと苦笑。

帰宅してたまたまテレビを見ると相変わらず国会では審議中に寝ている議員が散見された。「最善のプレーを尽くせば、夜もぐっすりと眠れる」うえに昼間もよく眠っていらっしゃる先生方である。

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昨秋七十歳になったのを機に『荷風全集』の再読をはじめた。荷風ファン×東京在住下層年金生活者としてありがたいのはアメリカとフランスへの西遊を別にすると作品の舞台となる地は東京に限られ、多くが簡単に訪れることができ、荷風文学の地誌に親しむことができる。国内旅行は京都、大阪、長崎、それと戦時中に疎開した岡山や敗戦直後の東京への帰還が叶わなかったときの熱海くらいのものだ。

荷風が若き日を回想しながら、礫川つまり小石川を散歩した際の随筆に「礫川徜徉記」がある。過日久しぶりに読み、ゆかりの場所を散策した。

根津神社裏門坂を上がって本郷通りへ出て白山に向かい、白山神社にごあいさつして近くの蓮久寺を訪れ荷風の友人で、唖唖と号した井上精一の墓に参った。井上唖唖が歿したのは大正十二年七月十一日、享年四十四、破滅型の文士は酒で命を縮めた。「礫川徜徉記」は大正十三年に発表されていて、荷風が訪れたときはまだ一周忌を迎えていなかった。

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「門に入るに離離たる古松の下に寺の男の落葉掃きゐたれば」といった光景は過去のものとなっているが「世に竹馬の交をよろこべるものは多かるべしといへども、子とわれとの如く終生よく無頼の行動を共にしたのは稀なるべし」と語った友人は「井上家之墓」に眠っていて墓碑銘に「俗名精一」と刻まれている。

よい機会だから荷風「十日の菊」にある唖々のことばをしるしておこう。

「此の頃の若い女はざつと雨が降つてくるのを見ても、あらしもよひの天気だとは言はない。低気圧だとか、暴風雨だとか言ふよ。道をきくと、車夫のくせに、四辻の事を十字街だのと言ふよ。ちよいと向のお稲荷様なんていふ事は知らないんだ。御話にやならない。大工や植木屋で、仕事をしたことを全部完成ですと言つた奴があるよ。銭勘定は会計、受取は請求といふのだつたな」云々。

井上唖唖の墓参のあと、もうひとりおなじ白山の本念寺にある蜀山人太田南畝の墓を訪れた。

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大正三年八月「文章世界」臨時増刊に載る「趣味と好尚」というアンケート「好きな歴史上の人物は?」に荷風は「大田南畝」と回答している。

その人間的魅力については「葷斎漫筆」に、儒学に造詣深く、狂歌稗史をつくる奇才あるものの名声に恋恋としない、古今の典礼故実に通じながら博識を誇らしげにしない、芸妓娼妓の巷に出入りしても酒色に溺れない、心が広くときに人の意表に出ることはあっても謙譲の徳を失わない、これらが人をして南畝を尊敬、また慕わせると説いた。

ちなみに上のアンケートでは「一番幸福に思ふことは?」に「訪問記者の来らぬ日」、「一番不幸に思ふ事は?」に「銭のないこと」と答えている。

その十年後、荷風は「礫川徜徉記」に「われ小石川白山のあたりを過る時は、必本念寺に入りて北山南畝両儒の墓を弔ひ、また南畝が後裔にしてわれらが友たりし南岳の墓に香華を手向くるを常となせり」と書いた。