WHOを疑う

この四月に退職して十年目に入った。このかん、本を読むのは喫茶店がもっぱらだったが緊急事態宣言を機にお休みとなった。なじみの居酒屋さんもおなじく。

珈琲もお酒も家飲み専一になったけれど、外出を自粛するだけで感染拡大を抑える一助になるのだから何ほどのことはない。

これまでわたしは人生を楽しもう、だから生きるために生きるのは辛いだろうなと思っていた。いま緊急事態宣言下にあって生きるために生きている感は強いが、さほどのことはなく、人生の深呼吸のひとときを過ごしている気がしている。しかもありがたいことにジョギングと散歩は禁止事項となっていない。もちろん自宅での楽しみの充実は図らなければならない。まずはB級グルメのつまみについての研究である。

ジョギングはレースの前は別にして、平日は不忍池、上野公園で7キロほど、土日は本郷通りに出て気の向くままに10キロを走っているが、新型コロナウイルス禍のもと週末の10キロは休止して平日とおなじとした。疲れで免疫力が落ちるとヤバイとネットにあったので前期高齢者としては用心しておかなくてはいけない。

朝はジョギング。夕刻は散歩のついでにコンビニでつまみを買ったり、百均で買い物をしたり、二、三百円の楽しみである。

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三月二十七日に「無症状の人は石川県にお越しを」と観光を呼びかけた谷本正憲知事が四月十日に「局面が変わった」として「石川県に極力入っていただかないよう対応せねばならない」と真逆の発言をした。「峠を越えたかなと思ったのが間違いだった。気持ちを全面的に入れ替え、対応せねばいかん」と反省の弁である。

来県の呼びかけのときは、この知事さん、頭おかしいのでは、ああ、なんと!と思ったものだが、方針転換で反省の弁を口にしたのは好感がもてた。安倍首相、森喜朗東京五輪組織委員会会長、山下泰裕JOC会長などオリンピック通常開催をかたくなに主張していた方々が一転延期となった際の無反省、頬かぶり、開き直りにくらべるとはるかに誠実だ。

緊急事態下の事業所等への対応として、小池都知事の幅広い休業要請は支持も期待もしている。ただこの人も五輪通常開催の発言については頬かぶりのままだ。

いつまでしつこいこといっているといわれるかもしれないが、それぞれの段階で、深く考えられた言葉を発しているか、雰囲気、時流に乗じた言葉なのかの問題は残る。

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昨年八月に新潮社から刊行されたドナルド・L・マギン『スタン・ゲッツ 音楽に生きる』(村上春樹訳)をさきごろ知り、スタン・ゲッツのファンとしてはなんだか申し訳なく、あわてて手にした。

B 5版五百七十頁余、上下二段組には細かい活字がびっしりと並んでいて、はじめそのボリュームにおどろき、読破できるかなと不安を覚えたが、スタートすればたちまち解消しグイグイと進んで行った。村上春樹の翻訳は読みやすく、おかげで十日ほどで読み終えた。スタン・ゲッツを聴きながら彼の伝記を読む至福の体験だった。

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ノリのよい楽曲も、優しくロマンティックなものも、スタン・ゲッツは自家薬籠中にして提示してくれるミュージシャンだ。

本書に感染症が猛威を振るういまだからこそ書きとめておきたいエピソードがある。

スタンフォード大学でジャズ・ワークショップを創始し、スタン・ゲッツを大学へ招いたジム・ネイデルが友人でもあるゲストに「スタン、僕らが何をやっているか、君にはわかるかな。僕らはこのろくでもない世界を色づけしているんだ」と語った。芸術とは何かの問いに対する名答であり、とりわけいまの世界の状況と芸術との関係を思うとまことに説得力がある。

スタン・ゲッツはジム・ネイデルに「そうか」といって、ずっと忘れなかった。しかもやがてスタンはことあるごとに「いいかい、ネイト、いちばん重要なことはね、ぼくらがこの世界にこの手で色づけをしているということなんだよ」と語るようになっていた。ジム・ネイデル(ネイト)は演奏しているスタン・ゲッツを、大きな絵画を描いているようだったと述べている。音楽も絵画も世界を色づけしてくれている。

村上春樹は、彼の音楽の神髄はほとんど完璧な演奏技術に支えられた「リリシズム」「叙情精神」だという。そのディスクを聴きながら本書を読んだのは至福と書いたが、クスリとアルコール漬けの人だから正確にいうと至福ばかりではない。酒が入ったときの家庭内暴力は凄まじいばかりで読んでいて息ぐるしいときもあった。「リリシズム」と「叙情精神」の裏に残忍なデーモンが潜んでいる人だった。

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しぐれ(時雨)は、秋の末から冬の初めごろに、降ったりやんだりする小雨をいう。

「うしろすがたのしぐれてゆくか」という山頭火の句を知ったのは丸谷才一『横しぐれ』を通じてだった。しぐれは冬の季語、のちに一句は無季と解するのが一般的と知り、自由律俳句って難しいものだなと思った。

せみしぐれ(蝉時雨)を知ったのは藤沢周平の同名の小説で「文四郎さんのお子が私の子で、私の子供が文四郎さんのお子であるような道はなかったのでしょうか」には泣かされました。

はじめ、せみしぐれは一週間という蝉の成虫の短命から、ほんのわずかな時間に降るしぐれと思っていたが、のちに多くの蝉が一斉に鳴きたてる声を時雨の降る音に見立てた語と知った。寿命ではなく鳴声からきたことばだったんですね。だから夏の季語です。

先年、当時岡山県笠岡市の県立笠岡高校の三年生だった植松蒼くんの研究で、蝉の寿命は一週間より長く、ひと月ほどあると修正された。各種の最長はアブラゼミが三十二日間、ツクツクボウシが二十六日間、クマゼミが十五日間だったとの由。

せみしぐれの頃には感染症の拡大が収まっていますように。

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四月十七日。緊急事態宣言が全国に拡大して発出された。

このところ外出自粛もあって朝昼晩のニュースが欠かせなくなった。海外の放送局のニュースや検証番組も含めてずいぶん報道番組をみている。

スポーツや政局などと違い新型コロナウィルスは自身の健康、生命また家計に直結するから当然ではあるが、くわえてこの出来事は世界史の転回点になるかもしれないとの予感がある。暗いトンネルを抜けたとしても元のままの生活に戻るというわけにはいかないのではないか。国際政治では米中の力関係、影響力はどうなるだろう、日常生活では握手は控え、ソーシャルディスタンスを保つのが常態化するだろうなどなど、リーマンショックのときはこの感覚はなかった。すでに「コロナ前」before coronavirus、「コロナ後」after coronavirusという世界史の時代区分を述べている海外の識者がいた。

世界史というマクロ的視点とは別に私生活はどうか。発熱だからとすぐ病院へ行き診察を受けるのではなく、まずはネット診療となるだろう。これから先、海外旅行を楽しむ機会はやって来るだろうか。もう大丈夫といわれても二の足を踏むかもしれない。映画館は一席空けるのがふつうになるかもしれない、それとも完全防菌抗菌対応の防護服で鑑賞するようになるかな。

くわえて生き方の問題がある。わたしは人々が共に生き合える世界を願うが、他人に奉仕するために、自分個人の健全にして、愉快な生き方を捨ててしまうのは、自身の流儀ではなく、ましてや退職した隠居の身であればなおさらだと思っていた。しかしいま医療スタッフ、スーパー、コンビニ等生活必需品のお店の方々、物流事業従事者、清掃にあたってくださっている人たち等々を思うと忸怩たる気持にならざるをえない。

先日Twitterにあった医師の投稿に胸が熱くなった。

「私が1番感染するリスクが高いので子供と別居することになった。子供のために必要なこと。それは医師としてわかってる。でも次いつ会えるかわからない、特にまだ授乳してた10ヶ月の子はこれで強制的に卒乳決定だし1ヶ月も会わなかったら忘れられそうだしとか母親的な気持ちはついていけない。でも大切な家族を守るため。そう思って仕事がんばる」

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WHOのテドロス事務局長が事実の検証をしないまま台湾に難癖をつけている。テドロス氏は、自身がインターネット上で人種差別的な中傷にさらされていて、個人攻撃は台湾から来ていると訴えた。蔡英文総統はこれに強く抗議し、民間でも反論広告を米紙に掲載する有志の活動に多くの支持が集まった。

いくつか関連記事を読んで、テドロス氏は事実関係についてしっかりした検証を行っていないとわたしは判断した。とんでもないことだ。国会で八紘一宇を説かれた三原じゅん子先生、いまこそ八紘一宇を持ち出して、台湾を誹謗中傷するような組織は相手にしない、日本には国際連盟を脱退した輝かしい歴史がある、WHOの脱退も辞さない!とでも叫んでやって。

WHOは、人から人への感染はない、国際往来を止める必要はないなどと述べたうえに、中国に配慮してパンデミックの宣言を遅らせ、そうして中国のコロナ対策を絶賛し、習近平指導力を賛美したなどなど、そのズッコケぶりはあらためていうまでもない。

それでも人類がはじめて直面したウイルスだから試行錯誤もやむをえない、できるだけ寛容でいようと考えていたのだが、発せられる情報のお粗末にくわえ台湾に対するいいがかりで、これはとんでもない国際組織だと考えを変えた。

感染症をめぐるピントはずれのアナウンス、台湾への理由のない攻撃。本業の下手に、愚かな行為を重ねる困った組織であり、事務局長だ。WHOは中国におもねるばかりで国際機関としての役割を果たしていないというトランプ大統領の批判はまっとうで、今こそ安倍首相のお好きな日米の共同歩調が大切だ。

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四月三十日は荷風忌。永井荷風が亡くなったのは一九五九年(昭和三十四年)のこの日だった。同日の夕刊でその死を知った川端康成は「四月三十日のある夕刊に、荷風氏の死の部屋の乱雑貧陋の写真をながめていると、そのなかにうつぶせの死骸もあるのにやがて気づいて、私はぎょっとした」と書いている。(「遠く仰いで来た大詩人」)

また室生犀星は「有楽町の或る映画館のニュースで、荷風さんの仰臥された遺体を見て、眼は細く年より若く見えるその白いお顔を私は黯然とながめた。これが同業先輩の死顔かと、そして斯様なニュースに死顔を晒していることが激怒と悲哀とを混ぜて、私に迫った」と述べている(「金ぴかの一日」)。いずれも多田蔵人『荷風追想』(岩波文庫)に収められている。

荷風の遺体について川端康成は「うつぶせの死骸」、室生犀星は「仰臥された遺体」という。わたしは前者の写真はみたことはあるが、後者は知らない。どちらも事実とすれば、うつぶせになった遺体を仰向きにして写真を撮った、もしくは撮らせた人がいたわけだ。逆はないだろうから。

おなじく『荷風追想』にある関根歌「日蔭の女の五年間」によると、荷風が亡くなった日、市川市にある自宅にテレビカメラが入っていて、荷風の愛妾だった歌はその日の夜のテレビにチーズクラッカーの散らばった部屋が映っていたと語っている。好きだったのかな。