時代と訓辞

新型コロナ感染症が拡大するなか新しい年度がはじまった。本来なら企業、官庁では新たにくわわるメンバーが一堂に会し、トップから辞令が交付され、訓辞で新人としての心得が説かれるのが、この春はネットで訓辞が配信されたり、セクション別に辞令の交付だけが行われたりと例年とはずいぶん異なる光景がみられた。

異例のスタート、そこで訓辞のことが気になった。

学校を終えて社会人になれば、公的生活の場は職場に移る。職場にはそれぞれ社会的使命、役割とともに規則があり、慣行があり、人間関係がある。訓辞はこれらを踏まえて読まれるが、職場は時代とともに変化するから訓辞にもそれが反映する。

政治学者の京極純一先生が一九七六年(昭和五十一年)に発表した「実学と虚学」というエッセイがあり、いま読むと訓辞を通して当時の学校と社会との関係のありようが知れる。

大略すると〈訓辞の言葉はさまざまだが、医療や理工系、法曹関係は別として文科系のばあい、大学で勉強してきたことをしっかり活かして、といった内容はまれで、多くは大学で学んだことは一切忘れ、気分も新たに、仕事の進め方を第一歩から学んでほしい、というものだ。学校で学んだことは忘れろというのは諸君はいまや年功序列の秩序に組み込まれたのであって学校で教わった生半可な学問を振りまわしてこの秩序に刃向かったりすると痛い目にあうぞという意味である〉といった内容で、わたしたち団塊の世代にはおなじみだが、いまの若い人たちは意外に受けとめるかもしれない。

就職とは学校から実社会への進出であり、その実社会を「新明解国語辞典」(三省堂)は「実際の社会。美化・様式化されたものとは違って複雑で、虚偽と欺瞞とが充満し、毎日が試練の連続であると言える、きびしい社会」と説明していて、一読、粛然として襟を正さなければという気になる。

学校で学んだことは忘れてしまいなさいといった訓辞は、企業としては学校で身につけたなまくら剣法は不要であり、あらためて実社会で通用する実践的剣法で鍛え直すとの宣言にほかならない。その背後には新社会人を一から鍛え直す企業の余力と終身雇用という制度があり、さらには学生のあいだは学問や理屈はさておいて多少やんちゃでも元気に青春しておればよろしいといった学生にたいする社会の許容度の高さという事情があった。

京極先生がこのエッセイを発表されてからはや四十余年が経つ。すでにこの種の訓辞は昔がたりとなった。このかん新人を一から鍛え直す余力は多くの企業で失せ、終身雇用、年功序列を柱とする日本型経営は揺らぎ、崩れ、国際化の進展、常勤と非常勤、正規雇用と非正規雇用、正社員と派遣社員などなど職場は大きく変化した。

時代をさかのぼると東大医学部の先生で夏目漱石の遺体解剖をした医師としても知られ、一九三四年(昭和九年)に東大総長となった長与又郎(作家の長与善郎は弟)は、学生時代にあまり世渡りの道を考えるようになってはいけないと述べていて、ここにも職業生活にシフトする手前では大いに若き日を謳歌すればよいといった考え方がうかがえる。

いまはどうだろうか。わたしは十年ほどまえに退職し「実社会」を引いた身だから確たることはいえないが、どうやら若い人には早くから「世渡りの道」を考え、学校にいるときから職業体験、職場体験をするよう求める声が高いようである。その原因としては産業経済の構造的変化、雇用の多様化と流動化、そこから生ずる格差、若い人の勤労観、職業観の変化などが考えられる。

「世渡りの道」を文部科学省ふうに申せば、一人ひとりが社会との適切な関係を構築し、将来の精神的,経済的自立を促していくための意識の涵養と豊かな人間性の育成となる。

おのずと訓辞も変わる。学校で学んだことは忘れてなどは遠い昔のはなしとならざるをえない。それどころか学校にいるときから「実社会」で通用する学力と生活態度、コミュニケーションやプレゼンテーションの能力などを身につけた即戦力としての新人が求められている。訓辞もその線に沿ったものとなる。

わたしは公立高校で入学式、卒業式の式辞を読んだ。そして多くに「きみたちはやがて否応なく進路の選択に迫られます。全国を相手の大学等の入試や、就職試験を突破しなければなりません。一年生の時から、目標やそれを実現しようとする意欲がなければその達成は困難になります」といった内容を入れた。いまの社会では、進学や就職という明日をいたずらに思いわずらうことなく若き日を謳歌しましょうといった式辞は読みにくい。訓辞や式辞にも時代相がみてとれる。