東京オリンピックどころではない

自宅にプリンターがなく昨年度までは税務署へ行って確定申告をしていたが、今年度はマイナンバーカードを取得したのでパソコンで必要事項を記入し、ネットで税務署に送信するだけで済んだ。確定申告のためにマイナンバーカードというエサに喰いつくのはしゃくだったがたしかに簡単便利ではある。

よい機会だから税金を詠んだ句はないかなと歳時記を開いてみると「下萌の僅かな地にも贈与税」(竹中碧水史)があり、草の芽が萌え出る早春と贈与税との取り合わせにほろ苦さを感じた。また江國滋『微苦笑俳句コレクション』を開くと「坪壱阡萬圓也の茂りかな」(大野朱香)があり、わたしは高級住宅地の緑に囲まれた豪邸の一本の庭木の地だけでも一千万円と解して、わずかな地にかかる贈与税の句と対比して格差社会をみた気がした。

江國滋の著書は一九九四年(平成六年)、実業之日本社から刊行されていて、なかに「伸びるだけ伸びる寿命へ納税期」(有馬ひろこ)という時代相をよく示した一句があった。たしかこの頃から少子高齢化が広くいわれるようになったのではなかったかな。

寿命が伸びるのはありがたいが、少しは遺してやりたい身に税金を搾り取られのは辛い。「電卓打つ指に殺気や納税期」(長嶺千晶)。

確定申告は季語になる資格は十分だが、字余り、不粋で納税期のほうが用いやすいようだ。

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NHK BSで高倉健の最後の主演映画「あなたへ」をみた。

なかの印象的なシーン。元中学教師を自称する杉野(ビートたけし)が刑務官の倉島(高倉健)に「旅と放浪の違いってなんだと思いますか?」 とたずねる。突飛な問いかけにとまどう倉島に杉野が「目的地があるか、ないかです」 また「帰るところがあるかどうかです」と答えたうえで芭蕉は旅人だったが山頭火は放浪人だったという。

なるほど。ならば西行は旅人で、尾崎放哉は放浪人だっただろう。

「うしろすがたのしぐれてゆくか」しか知らないわたしはこの機会じゃないと山頭火、放哉ともご縁がないかもしれないと電子版で二人の作品集を求めた。

ジョージ・オーウェル「スペイン内戦回顧」にかすかな安心をもたらしてくれる生活として食料のほかに失業の恐怖からの解放、子どもに公平な機会を与えられるという安心、適切な頻度での清潔な下着やシーツの交換、雨漏りのない部屋などが挙げられていた。旅と放浪ではこれらを断念する度合が異なるだろう。

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東京オリンピック招致にあたり、福島原発は大丈夫、アンダーコントロールですと世界に大見栄を張った方がテレビで新型コロナウイルス対応について「欧米と異なり、ぎりぎり持ちこたえているが、気を緩めればいつ急拡大してもおかしくない」「かつてない強大な政策パッケージを練り上げる」とおっしゃっていた。ほんとかな。奥様もお花見に興じていたようだし。

永井荷風断腸亭日乗』昭和十五年五月十六日の記事に「余は日本の新聞の欧州戦争に関する報道は米仏側電報記事を読むのみにて、獨逸よりの報道又日本人の所論は一切之を目にせざるなり」とある。

そこでわたしも荷風先生にならい「余は現時日本の政権は福島原発、森友加計学園問題等の所論により虚言癖ありと断じをり、一連の感染拡大に関する記者会見もにわかには信じざるものなり」とした。

福島原発の大量汚染水があってもアンダーコントロールといい、情報公開には消極的、公文書の改竄や破棄には積極的な内閣のもとではこうした姿勢を保ち続けるほかない。

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開戦当時、秋本安雄上等兵(のちの春風亭柳昇)は東京赤坂の東部第六十二部隊で日常業務にくわえ初年兵の指導にあたっていた。そのため外出できない日曜日が続いたこともあった。そこで教官の少尉が「助手のおまえたちが、初年兵のために外出もできず、気の毒である」からと外へ連れ出してくれた。行先は日本劇場、四、五人で赤坂から市電に乗り有楽町へ向かった。

映画は何をやっていたか忘れたが、日劇ダンシングチームの踊りは美しくもまた、有毒であったと上等兵は回想している。

少尉「どうだ、この踊り、どう思うか」

秋本上等兵「ハア、キレイであります」

少尉「キレイだけではいかん。若い、しかも女が、あれだけの人数で少しの狂いもなく音楽に合わせて踊るということは、たいへんな努力の結果である。女でも訓練すれば、あれだけのことができるのだから、われわれ軍人は、もっとしっかりしなければいかん‼︎」

春風亭柳昇与太郎戦記』にあるやりとりで、むかしの日本人は遊びや休暇は世間体がわるいと思っていたからなんらかの大義名分を求めていて、この少尉も観劇に行っただけでは恰好がつかないと、無理矢理レビューの舞台を兵士の心得としたのだった。

在職中、夏季特別休暇制度というのがあり五日取得できたが、わたしの若い頃は休暇ではなく夏季鍛錬と呼んでいた。少尉の口ぶりをまねると、われわれ公務員は、もっとしっかりしなければいかん‼︎そのための鍛錬だった。

もうひとつ『与太郎戦記』の姉妹篇『陸軍落語兵』から柳昇師が軍隊で出会った運のいい人の話を。

その方は山野伍長。戦闘中に左の脇腹がかゆくなり、右手で掻こうとしたが小銃を握っていて、仕方がないので左手で掻こうとして指先を脇腹へ持っていったとたんに腕と脇腹とのあいだを弾丸が通り抜け、うしろにいた兵隊の肩に当たってしまった。

また、戦闘中むしょうに煙草が吸いたくなり左の物入れ(ポケット)からケースを取り出して一服つけて、ケースをもとのポケットに戻そうとしたら敵が急に激しく発砲してきたので、あわてて腰の皮帯(ベルト)のところに差し込んで応戦したところで敵の弾が腹に命中したが、そこに煙草のケースがあった。

あるとき敵状の監視を大隊長から命ぜられて異常ないかと問われ、視力が弱くてはっきりわかりませんと答えたところ、大隊長は、どけっ!と伍長の身体を引っ張り、自分が入れ替わって身を乗り出したとたん胸に一発受け、その場で戦死した。

運のいいのはけっこうだが、この人のうしろにいて被弾したり、代わりに身を乗り出して戦死したりとまわりにいるとけっこうヤバイ。戦場でなくてもおなじかもしれないと友人、知人のなかに幸運の人を探してみた。あまりよい性格じゃないな。

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四月四日はあんぱんの日。一八七五年( 明治八年)のこの日、明治天皇に仕えていた山岡鉄舟が、木村屋のあんぱんを明治天皇に献上したことに由来している。

「あんぱんの葡萄の臍や春惜しむ 」三好達治

いいなあ。あんぱんの臍といえば桜の花の塩漬けを用いた「桜あんぱん」が有名だが、この句の葡萄の臍はレーズンだろう。ほかにも白ごま、黒ごまなどあんぱんの臍には気をつけておこう。

あんぱんと俳人といえば坪内稔典氏で、その著『季語集』(二00六年、岩波新書)には「ほぼ毎朝、あんパンを一個か二個食べる。あんパン。コーヒー。果物か野菜サラダ。ヨーグルト。これが近年の私の朝食だ」、しかもあんパンを食べるようになっておよそ二十年になるというからハンパない。

氏は、いつ食べてもうまいが桜の時期にはことに美味という感じがするという。春の気温や空気があんパンをしっとりさせるからだろうか、とも。

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「あちらからどつと来ました渡り鳥」土肥あき子句集『夜のぶらんこ』より。

渡り鳥の秋を詠んだ作者の思いとは別に、新型コロナウイルス禍のいまにあっては渡り鳥には申し訳ないが不気味な気がする。現状がさほど改善されないまま七月二十四日の開会式に「どつと来る」何かを考えると恐ろしい。

新型コロナウイルスの危機は対策を誤り、怠れば「あちらからどつと来ました」状態を招来する。ヒト、モノ、カネが世界規模で動く国際化社会の試練に、何がいちばん適切な施策かは専門家におまかせするほかないが、条件も整わないのに「あちらからどつと来ました」オリンピックが困るのはわたしでもわかる。と、思っていたら三月二十四日、急遽一年の延期と決まった。

一九六四年の東京オリンピックのときわたしは中学三年生だった。体操ニッポン、東洋の魔女、チャスラフスカ、マラソンアベベなどいずれもなつかしい思い出だ。

生きてもう一度五輪自国開催にめぐりあえるなんて思ってもいなかったところ、はからずも2020東京五輪の開催が決まり、できれば開会式をみたくてチケットを求めたが叶わなかった。

ところが新型コロナウイルス感染拡大によりオリンピック、パラリンピックは三月二十四日に一年延期が決まり、三月三十日にオリンピックは二0二一年七月二十三日から八月八日、パラリンピックは八月二十四日から九月五日の日程での開催が決まった。

しかしそのニュースを知っても新国立競技場に足を運ぼうという気持はすでに萎えてしまっている。オリンピックどころではない。選手の気持は別にして、感染症禍の現実を思えば、そんなこともうどうでもよくなった。。延期による追加費用もできるだけ国民生活の安定に振り向けるほうがよい。

東日本大震災福島原発の崩壊以来、日本の社会の空気が、どこかしら変わったと感じる。いま感染症の収束を願いながら、そのとき世界の空気はずいぶん変わっているような気がする。

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 四月七日。

「わがままきままな旅の雨にはぬれてゆく」

「はれたりふつたり青田になつた」

「笠をぬぎしみじみとぬれ」

「行乞流転のはかなさであり独善孤調のわびしさである。私はあてもなく果もなくさまよひあるいてゐたが、ひとつひに孤ならず、欲しがってゐた寝床にはめぐまれた」なかで詠まれたうえの山頭火の句は家をもたない、家族と別れた人の「雨に唄えば」であり、雨との接し方にしみじみした爽やかさがある。わたしは雨に唄うより傘をさすほうだけれど。

山のあなたに住むというさいわいを見ようとした詩人がいた。山頭火は「山のあなたへお日さまを見おくり御飯にする」と詠んだ。個人の資質を超えて、詩と俳句の感性の違いを感じた。

茶店山頭火の句集、文集を開いているとスマートフォンにニュースがはいり緊急事態宣言が発せられたと知った。このお店も明日からお休みとなる。

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四月七日夜。改正新型インフルエンザ等対策特別措置法にもとづき緊急事態宣言が発令された。

この日の記者会見で、安倍首相は、緊急事態宣言を発令しても新型コロナウイルスの感染拡大が抑えられなかった際の自身の責任について「最悪の事態になった場合、私が責任を取ればいいというものではない」と辞任を否定したうえで、質問したイタリア人の記者に「私たちがとっている対策。これが他の国と違うではないかということでありますが、それは他の国々、例えばお国(イタリア)と比べても感染者の方の数も死者の数も桁が違う状況であります」と語った。

さあ、緊急事態下で新型コロナウイルスと戦おうというときに、こういう質問をするのは愚かで嫌味であるが、首相としても、身命を賭した政治決断だ、くらいはいってほしかった。こんなやりとりをされては、東京都民の一人として三密の回避、外出自粛に努める気合がいささか削がれてしまう。

対して、アンドリュー・クオモニューヨーク州知事は、知事の権限で生活に不可欠な業種以外の州内の全労働者に自宅待機を義務づける発表にあたって「私が全責任を取る。不満や他人を非難したい気持ち、苦情があれば、私を非難してほしい。私以外にこの決定に責任がある人物はいない」と述べた。

今回の措置が失敗すれば、専門家の助力を得て、別の方法で新型コロナウイルスと戦うほかない。首相の人事で感染症は収まりはしない。

会見ではまた「正しい情報に基づき冷静な行動を」と訴えていて、しばしば丁寧な説明を、と口にはするが、さほど「正しい情報」を発しているとは思われない人の訴えは皮肉であった。

先にも引用した「スペイン内戦回顧」でジョージ・オーウェルは、ささやかな希望として「数年間飢えない程度の食料、四六時中失業の恐怖に襲われる状態からの解放、子どもに公平な機会を与えられるという安心、一日一度の入浴、適切な頻度で清潔な下着やシーツに取り換えられること、雨漏りがしない屋根、そして一日の仕事が終わった後に多少の余力を残してくれる程度の長さの労働」をあげた。世界規模で政治がこれに努め、医学が治療薬、ワクチンを開発する。そうして世界は感染症に克つ。