二村定一の「君恋し」

お気に入りの曲を繰り返したり、別ヴァージョンで聴くのが好きだから二村定一のアルバム「私の青空」に収める「君恋し」を聴くとなかなか次へ進めない。
この人の「君恋し」は歌詞がくっきりとしていて、べとついた湿度の高い感情は排されているのにどこかしら哀感が漂う。名唱たる所以だ。
君恋し」は昭和三十六年(一九六一年)フランク永井がジャズふうにカバーして大ヒットし、同年の第三回日本レコード大賞を受賞した。わたしがこの曲を知ったのもフランク永井盤をつうじてだった。のちに二村のオリジナル盤にはフランク永井盤にはない三番の歌詞があり、そこに「臙脂の紅帯ゆるむもさびしや」とあるのを知り、もともとは女が男の「君」を恋した、カフェーの女給さんの恋の歌なのかしらと思ったものだった。

昨二0一二年に「二村定一伝」の副題のある毛利眞人『砂漠に日が落ちて』(講談社)が刊行された。同書によるとはじめこの曲は大正十四年(一九二五年)に作曲の佐々紅華が新流行歌と銘打ち高井ルビーの歌唱でリリースされたという。作詞も佐々紅華だったらしい。二村盤はこの曲に時雨音羽が新しく歌詞を付け、井田一郎がアレンジを一新したもので、ジャズふうのフランク永井盤と思いあわせると、編曲の冴えが問われる曲とも見られよう。
二村定一については色川武大『怪しい来客簿』の人物像が一読忘れがたい印象を残すが、毛利前掲書によりその軌跡が詳しくたどられるようになった。著者は、日本でレコード録音にマイクロフォンが使用されるのは昭和二年(一九二七年)以降のことで、それまでは集音フォーンでカッティング・マシンに導いた音響をレコード溝に刻むアコースティック録音方式が採られていて、この方式では不明瞭な発音はさらに不明瞭となり、こうした時期に二村はことさらに明瞭な日本語の発音に心がけていたと書いている。わたしが「君恋し」の歌詞がくっきりしていると聴いたのにはこのような背景があったわけだ。

二村の「君恋し」が発売になったのは昭和三年(一九二八年)の暮れ十二月二十日だった。それまでにも浅草の舞台で前宣伝につとめていたからレコードは店頭に並ぶそばから飛ぶように売れたという。
大正九年(一九二〇年)東京に生まれた萩原朔太郎の長女萩原葉子は『父・萩原朔太郎』に「君恋し」がヒットしたころ、まるで憑かれたようにこの歌に魅せられていた母稲子の姿を描いている。古ぼけたラッパのついた蓄音機の前に、ぼんやり思い沈んだ、とてもさびしい笑顔をして、この歌を聴きながら死んでしまいたいとひとりごとのように口走ったこともあったとか。やがて彼女は子供の世話も顧みず頻繁に外出するようになり、ダンスに熱中し、学生と恋愛し、家を捨てて出奔、朔太郎との破局を迎えた。
森茉莉は『記憶の繪』で萩原葉子に触れて、その作品を「事実小説」としたうえで、なかにフィクションが含まれていて、それは事実を変えるということではなく、フィクションによってより事実となって光ると論じ「私は彼女の『父・萩原朔太郎』の中の最も事実らしいところがフィクションだと知って、驚いたことがある」と述べている。「君恋し」を憑かれるように聴いていた母稲子の姿がその部分に該当するとは考えられないが、仮にそうだとすれば二村の歌は作家萩原葉子の心を動かしていたことになる。
『砂漠に日が落ちて』によると、ある歌謡番組で二村の「君恋し」の感想を求められ、先輩には失礼ですが、お下手ですねえと語った演歌歌手がいたそうだ。どれほどの歌手かは知らないけれど、萩原葉子の母(もしかすると娘の葉子)の心を動かしたほどに、人の情感にはたらきかける歌唱力があったとは思われない。