不忍池でポケモンGO

書架を眺めているうちになつかしさから谷沢永一『紙つぶて(完全版)』(文春文庫)を手にした。一篇六百字、瞠目の書物コラムを通読するのはたしか四度目である。単行本『完本紙つぶて』は一九七八年文藝春秋刊、当時二十代後半だったわたしは一読して感銘を受けるとともに、購書の手引書としても長年にわたり参考にしてきた。
谷沢永一は政治評論まがいの文業も残したが、わたしには共感や知的興味を喚起してくれるものではなかった。著者のいう「私の数え年四十一歳から五十五歳までの、最も楽しい骨折り」としての『紙つぶて』こそが畢生の業績だったと思う。
『紙つぶて』のころにネットはない。ここには、身銭を切り、ガリ版刷り、タイプ印刷の冊子を刊行する篤志力行の人々の姿があちらこちらに見えていて頭の下がる思いがする。白川静先生も発表の機会に恵まれず大著『説文新義』を分冊にして「実に粗末な装幀」で細々と一部篤志家に頒布していたのだった。
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永井荷風の『腕くらべ』と『濹東綺譚』を読むと芸者と私娼の世界はそれなりにわかる。しかし芸者の世界での柳橋、新橋、日本橋等々の違いとなるとよくわからない。泉鏡花婦系図』のお蔦は柳橋の、『日本橋』のお孝と清葉は日本橋の芸者だが、谷沢永一によるといくら鏡花を読み込んでも双方の違いの理解には至らない、「鏡花作品の芸者はどこの芸者もみな同じ、ただ意地や張りを概念的に主張する無限の世界にすぎ」ず「明治の生きた芸妓の姿を、地方色によって描きわけた唯一の作家」は岡鬼太郎だけだった。永井荷風も「明治大正の花柳小説」でこの人を激賞していた。
『紙つぶて』に磯部鎮雄という名が見えている。江戸の町にはそのあたりでしか通用しない非公式の通りや坂、橋の名前があり、その当時は便利だっただろうが、いまになると史料にその名を見ても見当がつかない。そこで困り果てた時代小説作家や学者たちが昭和三十一年一月から資金を出しあい、磯部に依頼し、○○横丁とか△△小路といった江戸の非公式地名の研究成果をまとめてもらったという。その成果の一つに寛政改革以前の私娼窟を網羅した『江戸岡場所図誌』がある。岡鬼太郎と磯部鎮雄を知るだけでも芸者と私娼の世界の奥深さが想像されよう。
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紫陽花の盛りが過ぎて不忍池に蓮の花の季節がやって来た。某日午後、友人といっしょに池のほとりをあるいた。紅色、淡紅色、白色と花の微妙な違いを観察しながらの散歩だったが、帰宅して歳時記を開くと古来蓮は花のなかの君子と言われ、浮葉、巻葉、立葉などその葉も愛でられてきたとあった。葉の鑑賞とは思いもよらず、まだまだ人間未熟と痛感した。

二十歳ほど若い友人から、池に背を向けてスマホしている人たちの殆どはポケモンGOの組ですと解説があった。そういえば背もたれの人たちがいつもよりずいぶん多い。ポケモンGO はニュースで知っていても、適切なコメントがなければ眼前の人たちがそれに興じているとはわからなかった。
(翌日、当方もポケモンGOをダウンロードし、主に喫茶店からの帰りに不忍池のほとりでポケモンをつかまえております)

蓮を見たあとは旧岩崎邸庭園へ。明治二十九年に岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長久彌の本邸として造られ、かつてはおよそ一万五千坪の敷地に二十棟の建物が並んでいたという。いま敷地は三分の一ほどで現存する洋館、撞球室、和館大広間が公開されている。屋内を見学して庭に下りると木々と草艸の緑が爽やかさをもたらしてくれる。入場料は一般四百円、わたしは六十五歳以上なので二百円、うれしくまたほろ苦い気分だ。

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リオデジャネイロオリンピックでの日本選手の活躍に一喜一憂しながら、ひと段落したところで番組表を開くとイマジカBSに「陽だまりハウスでマラソンを」というドイツ映画があった。これまで知らなかった作品だがマラソンとあるのでさっそく視聴した。二0一三年の製作で日本では昨年三月に公開されている。
メルボルンオリンピック(一九五六年)のマラソン金メダリストパウルは半世紀以上経ったいま選手人生を支えてくれた妻マーゴと隠居暮らしをしていたが、妻の体調が芳しくなくなり二人は老人ホームへの入居を決意する。
入ってみると夫妻にホームはつまらないところだった。興味の湧かないレクリエーションや作業の繰り返し、過剰な干渉、規則の縛り等々に嫌気がさしたパウルは自分の生きがいは走ることにあると再びレースへの挑戦を決意し、マーゴもサポート役を引き受ける。はじめは変わり者と見ていた周囲の老人たちや職員がレースの間近には応援してくれるようになり、これを機に老人ホームのあり方が再考されることとなる。
パウルに扮したのはディーター・ハラーフォルデン。ドイツの国民的喜劇俳優だそうで、この作品により七十八歳の史上最高齢でドイツ映画祭最優秀主演男優賞を受賞した。
パウルの走る姿を前にしてケーリー・グラント、デボラ・カー主演「めぐり逢い」の「ここは思い出に浸る場所 、若い時は思い出を作るのよ」というせりふが浮かび、それ以上に若い時はのちの自分を支えてくれるものを作るためにあると思った。自分も長距離走が好きで走るのは生きがいだから競技力の高低にかかわらずパウルの気持は他人事ではない。
寺田寅彦「科学に志す人へ」のなかに、ある西洋の大家の言葉として「問題をつかまえ、そうしてその鍵をつかむのは年の若いときの仕事である。年をとってからはただその問題を守りたて、仕上げをかけるばかりだ」とある。そのうえで寅彦は、若いときは視野を広く持つ、遠慮のない雑食がよいと説いている。
美しい思い出を作り、のちの支えとなるものに情熱を傾け、学問の基礎工事をしっかりと行う。こうして将来に向かって若きいまを生きる賢人がいるいっぽうに賢人ならざる人の年経ての悔いがある。厄介な人生、いろんな事情がありみなが賢人のごとくにはまいらない。遅きに失した六日の菖蒲、十日の菊である。覆水盆に返るとは言わないが、それでも菖蒲の七日を、菊の十一日を生き抜く人に賢人の知らないよろこびが待っていると思いたい。
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行きつけの飲み屋さんで、先般のSMAPの解散が話題になり、中居正広木村拓哉は映画で役者として観ているけれど、SMAPというグループの一員というのは知らず、その歌も聴いたことがないと口にしたところ、店の常連さんで某民放のディレクターから、日本で唯一の人でしょうねと笑われた。そういうものかなあ。別の顔見知りの方は、それでよく職業人として務まりましたねと呆れていた。ははは。
新聞記者が閣僚にSMAPの解散について質問していて、わたしには不思議な光景だった。それだけ社会を揺るがす大事件ということになるのだろうが一面ではしあわせで、のんびりしたシーンで、昔なら記者が「愛染かつら」の霧島昇とミス・コロムビア(松原操)の結婚について内閣官房長官(当時は内閣書記官長)に所感を求めたりすれば不謹慎と一喝されたのではないかな。
以前、新聞に「モー娘」とあるのを見て子供に「もーむすめ」というのは何かと訊ねたところ、それは「もーむす」と言いますとたしなめられた。世情に疎いのはいまに始まったことではない。ひと昔まえの中国で毛沢東という名を聞いて、その方はどうした人ですかと質問した農民がいたとか。上には上がいるものだ。