和田誠さん、ありがとう

 原作と映像とのコラボによるわたしのアガサ・クリスティー攻略作戦、今回はエルキュール・ポアロのシリーズ中の傑作「白昼の悪魔」だ。テレビドラマは二度目だが、この機に原作を読んで、殺害された女の義理の子供を娘から息子に変える(正解だな)などアンソニーホロヴィッツの脚本との異同を確認した。

「白昼の悪魔」でミステリーへの意欲が高まり、ちょうど堀田善衛を読んでいたからスペイン繋がりで逢坂剛の名前が浮かび、氏の世界に突入した。堀田、逢坂の両氏はスペインに魅せられた日本の作家の代表的存在だ。逢坂氏についてはサスペンス映画や女優をめぐる対談本は読んでいるが小説ははじめてで、まずは代表作『新装版カディスの赤い星』から入り、ついで『裏切りの日々』『幻の祭典』をたちまち読み終え、いま文庫本で七百五十頁余りの『斜影はるかな国』の頁を繰っている。いずれもひとむかし前の小説だから登場人物がよくたばこを吸う。作品の魅力、面白さとは別に喫煙シーンの多さで時代が付いていると感じるのはやむをえない。ミステリーに描かれた時代を知るにはたばこ、ケータイ、スマホの描写から、といえそうである。

ところで『幻の祭典』に一九九二年バルセロナオリンピックに反対する女性ジャーナリストが推進派の暴力集団に襲撃を受ける場面があり、そのあと彼女は友人とこんな会話を交わす。「(オリンピックで)プラスになるものなんか、何もないと思うわ」「しかし今のままでは、バルセロナは世界に通用しない……今さらここで飛躍するのをやめる理由は何もない」。

オリンピックは開催都市に経済成長をもたらし、ステータスを高めるかもしれないけれど、確実に街並を変え、場合によっては人心、風俗に影響を及ぼす。そこのところをどう考えるかで人々の意思、態度は分れる。それに近年は開催都市の負担が大きく、経済効果はあまり期待できない。

一九八四年十一月堀田善衛網膜剥離のためバルセロナから日本に帰国し、手術、療養ののち八七年四月にバルセロナに戻ったが(このかん『定家明月記私抄続篇』を執筆)二年半の空白は街を大きく変えていた。八六年のIOC総会で九二年のオリンピック開催が決まったためにはやくもかつての姿はなくなっていた。娘の堀田百合子は父を回想した『ただの文士 父、堀田善衛のこと』に「二年半の空白は、バルセロナの街を大きく変えたのです。八六年のIOC総会で九二年のオリンピック開催が決定し、街は騒がしくなり、道路は二重駐車で混雑し、丘の上のアパートから港のほうを見下ろすと、スモッグがたなびき、かつてのバルセロナではありませんでした」と書いている。

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方丈記』に「また、養和のころとか(中略)二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき」の一例として「念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし」とあり、簗瀬一雄氏による現代語訳(角川ソフィア文庫)では「早くなんとかならないものかと考えあぐねて、種々の財宝を、片っぱしから捨て売りして、竹の子生活にはいったが、そんなものに目をくれるものは、だれもありゃしない」となっている。

なかの「竹の子生活」の意味は知っていたものの、あらためて売り食いの生活をなぜそう呼ぶのか考えるとあやふやで、辞書を引くと、たけのこの皮を一枚ずつ剥ぐように身の回りの衣類、家財などを少しずつ売って食いつないでいく生活、とあった。第二次世界大戦後の流行語だから歴史としては新しい言葉だが若い人たちはなじみがないだろう。

昭和二十四年の映画『青い山脈』では下の写真の真ん中にいる沼田医師(龍崎一郎)が芸者の梅太郎姐さん(木暮実千代)から「竹の子先生」とからかわれていた。竹の子生活から派生した言葉で、父親が藪医者で、その藪に竹の子が生えて薮医の二代目となった、つまり竹の子先生というわけだ。ただし「竹の子生活」とは違い「竹の子医者」「竹の子先生」のほうは辞書にはない。

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笠原十九司『増補決定版 南京事件論争史』(平凡社ライブラリー)を読みながら事件をめぐる日本人の反応を思いつくまま列挙してみた。

事件は「知りません」「知っています」「ありました」「ありませんでした」「済んだことです」「済ませてはなりません」「いつまでもそんなこと言わずに忘れましょう」「忘れました」「忘れません」「不都合な真実」「不都合もなにも戦争とはこんなもの」などなど。

そしてこれらは日本支配下での慰安婦、徴用工の問題にも当てはまる。日本の立場は日韓基本条約締結時に「済んだことです」であり、韓国は「不都合な真実」「済ませてはなりません」と主張する。

冷戦構造の崩壊は世界各地の民族紛争を露わにするきっかけとなった。韓国の文在寅政権の登場は覆いをしてあった戦後処理の問題を露出させた。とりあえず抑えられていた問題を急浮上させた点では共通している。

日韓基本条約という国家間の約束事を破るのはよくない。しかし日韓関係悪化の基にある戦後処理の問題を「済んだことです」「いつまでもそんなこと言わずに忘れましょう」では済まないのもよくわかる。条約締結からこぼれたものがないほうがおかしい。

歴史は現在に反映し、現在は未来をつくる。過去の痕跡は簡単に消えるものではなく日本人戦歿者の遺族である妻子の思いが、孫、ひ孫に継承されて遺族の活動があり、朝鮮半島では慰安婦、徴用工の問題がいまなお問題視されるのとは無縁の話ではない。

いま政治的対話を行う環境にないとは承知しているけれど、いずれ日韓基本条約を核とする戦後処理を検討してみる機会は必要だろうし、なによりも現状の異常さは是正されなければならない。両国ともあの戦争では膨大な犠牲者を出した。その結果が現在の日韓関係であるとすればあまりに申しわけなく、情けない。

余談だが大日本帝国の軍隊では、古年兵や班長に質問されて、初年兵が「知りません」と答えると殴られ、「忘れました」といえば免れたそうだ。「忘れました」が一度は教わっていることになるのにたいして、「知りません」は教えていないことを意地悪く質問しているとでもいうのか、という理屈だ。

その昔、ロッキード事件をめぐる国会証人喚問で、証人たちが「記憶にございません」を連発していた。「知りません」といえば証拠が出てきたとき偽証罪に問われかねない。「忘れました」だとそれらしい事実はあったと受け取られる。巧みな言い逃れとして浮上したのが「記憶にございません」だったとおぼしく、このほど三谷幸喜脚本・監督の映画のタイトルともなった。

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いまはもう秋、国技館では大相撲秋場所が催されている。その相撲って秋の季語なんですって。

山本健吉『基本季語五00選』には「本来は神事と関係の深いもので、宮廷では初秋の行司として、相撲節会(すまいのせちえ)があった」、加藤郁乎『江戸俳諧歳時記』には「宮廷行事としての相撲の節(せち)が古くより七月のころに行われていた」とある。

つまりこの季語は豊作を願い、祝うところから来ていて、宮相撲と聞けば秋を連想するのはそのためだろう。そこで少し勉強しようと『いま始める人のための俳句歳時記』と水原秋桜子編『俳句歳時記』を開いてみたが、前者に初場所があり、後者にちゃんこ鍋があるのみで相撲の立項はなかった。

ついでに若月紫蘭『東京年中行事』(明治四十四年刊)を見ると、取組が三役になると呼び出しの様子が仰々しくなり、醜名の前後に生国と名前をつけて呼ぶようになったとある。「東の方仙台の産駒ケ岳国力」「西の方高知の産国見山悦吉」といったふうに。いまと違って出身地と名前を呼ばれるのは三役から上の力士だった。

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「おととい来い」「おととい来やがれ」は、相手を追い返すときに用いる表現だが、解釈には二つの説があり、ひとつは、おとといの語源から、遠い日まで来るなという意味、もうひとつは単に、一昨日に来ることは不可能でもう手遅れという意味。ちなみに、おとといは、もともと遠い日を意味していた。

古代アテナイの高等法院の判事たちは解釈のつかない訴訟の判決を迫られると双方の当事者たちに、百年後に再び出頭せよと宣告したという。日本の、おととい来やがれが、アテナイでは百年後になるのが二つの時間の習俗である。

なお「おととい来やがれ」を英語に直訳すると〈don't you ever come here again!〉〈come here the day before yesterday〉になるが、どちらも啖呵を切る言い回しではなく、ネットには〈fuck off!〉が一番合っているとあった。

いまはもう秋、国技館では大相撲秋場所が催されている。

相撲の行司は、取り直しを命じることはできず、どちらかに軍配を上げなければならない。審判員の協議により行司差し違えとなれば勤務評定に関わる場合もあるだろうから気の毒だ。アテナイの判事は白黒決着がつかないときは百年後に再び出頭せよと宣告できても行司には許されていない。いつか「おととい来やがれ」と口にする行事を見てみたい。丸谷才一さんの作品名を借りると、これぞ「たった一人の反乱」である。

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NHKの受信料をめぐる問題提起を行うとしたNHKから国民を守る党、ワン・イシューの党として、その活動に注視もし、期待もしたが、選挙が終わってからの党首の行動や発言にゲンナリ、ウンザリした。

NHKをぶっこわす!」は問題提起として受け止めても「あほみたいに子供を産む民族は虐殺しよう」となると、期待や注視したわが身を恥じるばかりだ。

全体主義より受信料を払うほうがマシだと思うと、この党はひょっとしてNHKの友軍なのかもしれない。

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右肩が痛くなり、それでもストレッチや腕立て伏せはできたから、いつものようにして様子を見ていたところ、二三日して激痛となり右腕が上がらない状態に陥った。

整形外科を受診すると、レントゲンを撮り、右肩骨に石灰化がみられるとして内服薬と塗り薬をいただいた。一種の老人病に落胆した。

医師からは痛みがありながら、安静にせずストレッチや腕立て伏せをしたのはまずかったと指摘を受けた。相撲の立ち合いは呼吸を合わせなくてはならず、痛みにも呼吸を合わせた対応が求められる。それができなかったわが身を反省した。

いまニューヨークの国連本部内では気候変動問題に関連する会合が開かれている。わが身の反省から地球温暖化は天地自然と呼吸を合わせてこなかったしっぺ返しではないかと思った。

気候変動が経済と健康に悪影響を及ぼすのを否定するトランプ大統領だが、自然環境に痛みが生じている事態をどう考えているのだろう。天地自然と呼吸を合わせて痛みを取ってあげよう。その作業が小泉環境大臣のおっしゃるように「楽しく、クールで、セクシー」であるならばなおけっこうだ。わたしの肩の痛みを取る治療はセクシーではないけれど。

肩の痛みを慰めつつ床屋へ行くと理容師さんが「眉毛のなかに一本ずいぶん長いのがありますけど、切ってよいですか」と訊くので「どうぞよろしく。眉毛のなかにもみんなと歩調を合わせるのを嫌うのがいるんですね」というと彼女は「歳がいくと抜けるのを忘れる眉毛がいるんです」と説明してくれた。

床屋で他と不揃いの長い眉毛を切ってよいかと訊かれたのは初めてではない。しかしわたしはそれを元気のよい眉毛と思っていたのに、彼女によると抜けるのを忘れた認知症気味の眉毛なのであった。なんだかおかしくてわたしと理容師は大笑いしたのであったが、認知症の傾向は眉毛に示されるのだろうか。

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十月七日和田誠さんが亡くなった。享年八十三歳。

若いころ『お楽しみはこれからだ』でおもしろい映画と素敵なセリフを教えてもらい、レンタルビデオ店で探してきては立て続けに観た。ジャズに導いてくれたことにも感謝しなければならない。それと、わたしは丸谷才一さんのファンで、著書の多くは和田さんが装丁をしていたから、それらの本にはずいぶん親しんだ。

二0一一年に世田谷美術館の小さなホールで和田さんの企画による映画とジャズの会があり、開演前のロビーと舞台でお見かけしたのはよい思い出となった。「星に願いを」だったかな?島田歌穂さんと和田さんがデュエットした光景が目に浮かぶ。伴奏は佐山雅弘トリオ、その佐山さんも昨年歿した。ご冥福をお祈りします。

以下、本ブログ二0一一年八月二十五日の記事「世田谷文学館に進路を取れ」より。

「『お楽しみはこれからだ』をはじめて手にしてから三十年以上が経つ。見開き二頁に映画の名セリフを紹介しながら作品をめぐるあれこれを軽やかに語るエッセイだけでも目を瞠るのに、それに絶妙のイラストが附く。(中略)『お楽しみはこれからだ』全七巻はわたしの映画の道しるべだった。 映画とともにジャズのスタンダードナンバーでは『いつか聴いた歌』に道案内をしてもらって、どれほどお世話になったことか。 アーティストや作家より、和田誠のジャケットだから、装幀だからが購入の動機となったレコード、CD、本もずいぶんとあって、いろいろな世界に導いてもらった。この人を知らなかったらわたしの人生はいまよりだいぶんチープなものになっていただろう。」

訃報とともに妻平野レミさんの和田さんへの言葉が愛に溢れていてジーンときた。

「最後の料理を作っている時はすごく幸せで、『私にとっての一番の幸せは、和田さんにご飯を作ることだったんだ』とあらためて気付きました。47年間、私の料理を美味しい美味しいって食べてくれて、本当にありがとう。安らかにね」。