「存在のない子供たち」

映画を評価するにあたって、現実をどれほどにとらえているかを重要な物差しとするならば「存在のない子供たち」は最高点を与えられてしかるべきだろう。その昔、「靴みがき」や「自転車泥棒」などイタリアのネオリアリズモ作品をみた人々のおどろきや感動が思いあわされた。

レバノンの貧民窟に暮らす十二歳のゼインは親にこき使われる毎日だ。かれは貧しい両親が出生届を提出しなかったためにI.D.を持たない、存在のない子供である。両親もおなじ境遇だったのかもしれない。

ある日、仲のよかった一歳下の妹が結婚を強制され、まもなく妊娠の経過が悪く亡くなってしまう。ゼインは悲しみと怒りから両親のもとを去るが、I.D.をもたない者は職に就くことはむつかしい。たまたまゼインはエチオピアからレバノンに不法移民としてやって来た女性ラヒルを知り、彼女が勤めに出ているあいだ赤ん坊のヨナスの世話をするようになる。不法移民の子供だからヨナスも存在のない子供である。

そうしているうちラヒルが移民取締にひっかかり収容されたためゼインとラヒル「誰も知らない」状態に置かれる。氷と砂糖をミルク代わりに与え、懸命にヨナスの世話をするゼインの姿に胸が痛んだ。

重苦しい現実のなかでゼインは自分を生んだことを罰するよう両親を告訴する。リアリティと意外な作劇がひとつになり、裁判を通して一層現実が露わになる。

ゼインを労働力としかみなさず、妹を売買婚の犠牲とした両親。育てられないなら産んでほしくないとゼインは思う。いっぽうにこの厳しい現実の国に命懸けでやって来ざるをえない不法難民がいる。

レバノンの女性監督ナディーン・ラバキーが「存在のない子供たち」の目線を通して中東の貧困と移民問題を抉り出した見事な作品だ。

ゼイン役のゼイン・アル=ハッジは、レバノンに逃れて来たシリア難民であり、多くの出演者も似たような境遇にあるという。そういえばイタリアのネオリアリズム作品もプロの役者ではない、戦後のイタリア社会の厳しい現実を生きる人たちが起用されていた。

(七月二十二日シネスイッチ銀座

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以下、映画に刺激を受けての話です。

この映画をみて、仲正昌樹『100分で名著 ハンナ・アーレント全体主義の起源」』(NHKテキスト)を再読した。アーレントの名著を解説本で済ませているのは自分としては残念だが、それはともかく「存在のない子供たち」は「政府の保護を失い市民権を享受し得ず、従って生まれながらに持つはずの最低限の権利に頼るしかない人々が現れた瞬間に、彼らにこの権利を保障し得る者は全く存在せず、いかなる国家的もしくは国際的権威もそれを護る用意がないことが突然明らかになった」というアーレントの所説の完全映画化としてさしつかえない。

アーレントがこれを書いたときは第一次世界大戦ロシア革命による多数の亡命者の存在が意識されていたが、現在の世界はアーレントが直面した難民問題が拡大再生産されている事態のなかにある。

アーレントは「人間は、次第にアナーキーになっていく状況の中で、為す術もなく偶然に身を委ねたまま没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直した、狂気を帯びた一貫性に己を捧げるかという前代未聞の二者択一の前に立たされ」たと述べており、ファシズムスターリニズムをその文脈に位置付けた。トランプ万歳!は、アナーキーや硬直したイデオロギーをベースにした狂気を帯びた一貫性が拡大再生産されるなかで現れた現象なのだろうか。