大連に路面電車が走ったのは一九0九年。営業主体は満鉄が全額出資し分社化した純粋子会社で、実質的に満鉄の軌道、バス部門を担っていた。
日本の敗戦により管轄は大連市交通公司に移行し、一部の路線はトロリーバスへの転換や廃止となったが、いまも大連市電として健在で、わたしが乗った車輛には人力車が走っていたころの市内の風景が展示されていた。
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一八九八年帝政ロシアは大連を租借してダルニーと命名し、東洋経営の根拠地として都市開発を進めたが日露戦争の結果この地は日本の租借地となった。大連のヨーロッパふうの情緒にはロシア人も寄与していて、大連駅の北東側にある旧ロシア人街(俄羅斯風情街)はその名残となっている。マトリョーシカやベルトなどおなじものを売っている店が並び、再開発が成功したとは思えないが、街並には風情がある。
作家の松原一枝は『幻の大連』に、昭和のはじめの小学校のころを回想し、革命から逃れてきたロシア人たちが両肩からパンを入れた箱をつるして、ゆっくりと歩きながら、底力のある声で「ロシア、パン」といって売り歩いていたと書いている。野菜は中国人が行商していたから、物売りの風景にもこの街の特色があった。
清岡卓行『大連港で』によると、第二次大戦後進駐したソ連軍の将兵たちは大連に親愛感を懐いていて、かれらは、帝政ロシアが建設した都会だからヨーロッパふうな美しさをもっていると考えていた。そしてこのことは自分たちこそがこの都市を建設したと信じていた日本人には大きな衝撃をもたらしていた。たしかに最初の五年のあいだロシアは都市の建設にかかわったがその後の四十年は日本人がおこなったというのが日本人の言い分で、いっぽう中国人にすれば実際に労働したのはほとんどすべて自分たちであった。
これらをふまえ作者は「歴史的な背景が大連の日本人、中国人、ソ連人にあたえている心理的な影響は微妙なものであった。イデオロギーだけでは割りきれないものがいろいろあるようであった」と書いている。
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正岡子規が新聞「日本」の従軍記者として乗船した海城丸が大連港に入港したのは一八九五年(明治二十八年)四月十三日のことだった。周囲の心配をよそに病身を押しての赴任だった。このとき日清戦争は実質的には終わっていておよそひと月後の五月十五日帰国の途についた。
このかん五月二日子規は旧松山藩主で伯爵そして近衛師団副官だった久松定謨(さだこと)から金州の有名割烹店、宝興園にお招きにあずかった。この日の宴のさまを詠んだ句が「行く春の酒をたまはる陣屋哉」で、一九四0年(昭和十五年)日本人の篤志家により清の時代に金州副都統衙門だったところに碑が建てられた。
この碑は第二次世界大戦で所在がわからなくなってしまったが一九九八年になって工事現場から埋められていたのが発見され、二00一年にふたたび建立された。
再建の中心になったのは『子規・遼東半島の三三日』の著者池内央(いけうちひろし)さんで、著書の刊行は一九九七年だから、翌年になって行方不明の句碑が発見されたのは運命的といえる。
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一九0四年日露両軍は金州城の南近、南山で衝突し、その戦いは日露戦争の重要局面として位置づけられている。戦いの激しさは乃木希典「金州城下作」からも見てとることができる。
山川草木転荒涼
十里風腥新戦場
征馬不前人不語
金州城外立斜陽
もっとも現地を訪れて一望した限りでは、日露戦争の跡というよりも第二次世界大戦において現地で犠牲となったソビエト兵の墓地の印象が強い。
写真の記念碑には中国語とロシア語で「日本帝国主義を破るため勇敢にも犠牲となったソ連軍烈士たちよ、とこしえに 1945年」と書かれている。入場したかったが入口は閉ざされていた。Wikipediaには、一九四五年、ソ連赤軍の大連進駐後に整備されたこの墓地には、第二次世界大戦での進駐期間中に亡くなった兵士とその家族、朝鮮戦争で戦死したパイロットら1,323墓、2,030人が埋葬され、また陵園西部は帝政ロシアによる旅順占領時期につくられた公共墓地で、日露戦争で亡くなったロシア兵士1万4,873人が眠っているとある。
一九四五年八月、日本が敗れ、中国が勝利したとき、大連に進駐してきたのはソ連軍であった。ここで話は日露戦争とロシア革命にさかのぼる。
日本のブルジョアジーは日露戦争に勝利したが、敗北したのはロシア人民ではなくツァーリズムであり、これを機にロシア革命の好機がもたらされたと論じたのはレーニンで、革命に向けた政治的リアリズムから判断すると、かれにとって日本はツァーリズムを倒した友軍であった。
けれど進駐してきたソ連の将兵にこうした意識はない。清岡卓行は「思いがけなかった」ことのひとつとして、ソ連の将兵が旅順に到着したとき、日露戦争で父祖が奮戦した土地という強い親愛感をもっていたことをあげ、「日本人に、ソ連人の感情によって帝政ロシアのこの戦争は否定されておらず、イデオロギーとは別個に民族の血の切れないつながりがあることを教えた」と回想している。(『大連港で』)
くわえてソ連の対日戦争参加をめぐりスターリンはソ連軍の満洲侵攻と赤軍将兵の駐屯はかつて日露戦争で受けた国民的屈辱の仇をそそぐ行為であるとして、清岡が感じた「イデオロギーとは別個に民族の血の切れないつながり」の感情を煽っていたのである。
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大連滞在の最終日の夕刻、上海、天津とともに中国の三大良港といわれる大連港に面したビルにあるカフェバーで過ごしながら、港を一望した。ビルはかつて満鉄の大連埠頭事務所だった建物と思われる。満鉄時代の待合室は五千人を収容して、東洋一を誇っていた。こうして大連港は戦前、内地と大連との往来の場であった。
一九一六年(大正五年)生まれで、少女時代を満鉄社員だった父の勤務地大連で過ごした作家の松原一枝はのちに福岡県女子専門学校に内地留学して、夏休みには両親のいる大連に船で帰省した。船上には、彼女とおなじく内地に留学していて夏休みで父母の許に帰る男女の学生の姿があった。
「甲板を散歩する。ふとしたきっかけから、互いに名乗り合い他愛のない話をする。それはこの上もない開放的なやすらぎ、そして社交だった」「大連は輸入品に税金のかからない無税港である。そのせいで内地では高い輸入品が安く手に入るので、買物をよく頼まれる。主として、写真機、時計、トランプ、煙草。煙草は、年配の人はウェストミンスター。若い人は安いルビ・クイン。箱が赤くてきれいだった」
税関検査のとき煙草は自分のものとして持ち込まなければならない。「煙草をあなた、のむのですか」と訊かれるとやむなく「はい」と答える。そこは税関吏も心得ていて「じゃあ今、吸ってごらんなさい」などと無粋なことはいわず、にやりと笑って通関してくれたそうだ。
この回想からも大連がおしゃれで、国際色のある町だったことがうかがわれる。
そして日本の敗戦を機に大連港は日本人の引き揚げの港となった。