判断力と品行

「マチネの終わりに」は「愛染かつら」や「君の名は」(菊田一夫の原作ですよ、念のため)といったすれ違いメロドラマの一大変奏曲だった。

パリでの公演を終えた世界的なクラシックギタリストの蒔野聡史(福山雅治)と、パリの通信社に勤務するジャーナリストの小峰洋子(石田ゆり子)とが出会い、惹かれ合い、心を通わせていくが、洋子には婚約者新藤(伊勢谷友介)がいる。

そのことを知りながらも、蒔野は自身の思いを抑えきれず、洋子といっしょになろうとし、一度は彼女も受け容れたのだったが、予想もしなかったすれ違いが生じて……。

突発的な出来事による恋人たちのすれ違い、しかしいまはケータイ、スマホですぐに連絡でき、それでもこの種のドラマをつくろうとすればおのずと手の込んだ事情を持ち込まざるをえない。

具体的には書けないけれど、突発的な出来事とケータイ、スマホという小道具を上手に組み合わせた作劇術はまことに現代的で、しかしこの事情、手法をどう見るかでこの映画の好悪は分かれる気がする。好き嫌いとなるとわたしは後者に傾いていて、甘いラブストーリー、パリ、ニューヨークの美しい映像、彩りを添えている素敵な音楽にひたりながらも引っかかりを覚えていた。

「愛染かつら」からおよそ八十年経った時代のすれ違いメロドラマからは、現代の日本人もこうしたドラマに心動かされる心性を持っていることがうかがわれる。丸山眞男ふうに申せば「マチネの終わりに」は日本のメロドラマの古層の現代的展開となるだろう。

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クリスマスイヴの前日の宵を丸の内界隈のイルミネーションを眺めながら過ごした。この日は当エリアにあるオフィスの代表選手三百人がサンタさんに扮したパフォーマンスがあり、にぎわいもひとしおだ。

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ここで先日ラグビーワールドカップのベスト8入りした日本代表の記念パレードが行われたからだろう、楕円球をもつ羽生結弦選手や中川家の像が置かれてあった。いま公開されている「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」関連のイルミネーションも各所に設けられていた。

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ラグビーといえば清岡卓行マロニエの花が言った』のなかに日本のラグビーフットボール史の周辺にあるエピソードがあった。

画家、小磯良平東京美術学校卒業制作作品「彼の休息」は生涯にわたり親友だった詩人、竹中郁をモデルにしたラグビー選手がひと休みする姿を描いている。

竹中郁にはパリのホテルの自室にある小さな机で書いた作品「ラグビイ-アルチュール・オネゲール作曲」があり、清岡卓行によると「日本の現代詩において一つの画期的な傑作」で、ラグビーファンとしてはぜひ探して読んでみたい。

竹中郁が神戸からパリにやってきたのは一九二八年四月二十四日、二十四歳だった。彼は小磯良平、小磯と東京美術学校の同級生で水彩を専門とする中西利雄の三人でアルチュール・オネゲールの交響的楽章第二番「ラグビー」の演奏を聞きに行ったそうだ。初めて知る作曲家の楽曲もぜひ聴いてみたい。

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プラトンは老人たちに、若者たちがスポーツやダンスなどをしているところに出かけて、肉体の美しさ、しなやかさを見出し、若かりし日の自分の魅力や人気のほどを思い出すよう勧めていた。過ぎ去った人生をもう一度楽しむのを人生の知恵としたのである。

これにたいし自分をふくめ現代の高齢者は若いころの自分の魅力を思い出したり、これまでの人生を観照したりするより、若者たちがスポーツやダンスなどに興じていると自分もやってみようとする傾向が強い。

その一歩先にはアンチエイジングなるものがあり、テレビのコマーシャルでは七十歳の女性がなんとかの薬やサプリメントを服用して五十歳に見えたと大騒ぎしている。七十歳という自分の姿がよほどお気に召さないらしい。五十歳という仮面を世間に見せるのがそれほどうれしいのだろうか。男でいえば頭髪の薄いのが嫌だからとわざわざカツラ―になる感覚をわたしは理解できない。

男女を問わず七十年を生きて、素敵な年のとりかたをしましたとその姿を見せてくれるほうが薬やサプリメントやカツラの力を借りた姿にくらべてよほどよい。

「人間は好んで自分の病気を話題にする。彼の生活の中で一ばん面白くないことなのに」とチェーホフが書いていて、これについて河盛好蔵『人とつきあう法』に「とくに、なにかの病気を独特の療法で治した話は必ず人を謹聴させる」とある。

心の片隅にある病気の不安と貴重な治癒体験との合体はめでたいし、希望をもたらしてくれる。これにくわえてちかごろは若く見られた体験談が人々を「謹聴」させているようだ。若く見える鏡があればずいぶん売れることだろう。ひょっとして現在の写真を若返りの姿に修正するアプリはあるかもしれない。

週刊朝日」に「ドン・小西のイケてるファッションチェック」という連載があり、草笛光子さんを取り上げた記事でドン・小西氏は「年齢を負い目じゃなくて、自信に変えていったんだろう」と述べていた。若見え、若づくりの成功に騒ぐよりも年齢を自信に変える姿勢を見習いたい。

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「よい教育とは、人間の判断力と品行を変えるものだ」。

いま道徳教育がどんなふうに実践されているか知らないけれど、このモンテーニュの視点は絶対に欠いてはならない。この点を見失った自国の伝統と文化の礼讃はいびつなものにならざるをえない。

愛さない、愛します、愛するとき……文法は暗記しても愛を思うことのない人、物知りではあるが善良や賢明とは縁のない人の判断力と品行を変えるところに道徳教育の力はある。

『エセー』に、フランスで司法官を採用する際、学識だけを試験しているところがあるいっぽう具体的な訴訟について判決をさせてみて能力を試しているところもあり、モンテーニュは後者がよほど優れた方法であると評価し、「知識と判断力は、ともに必要であるし、兼ね備えているべきではあるものの、それでも本当のところは、判断力にくらべると、学識力は評価が低くなるー判断力は学識力なしでも平気だけれど、逆は成り立たない」と述べている。「謹聴」すべき言説だ。

モンテーニュをわたしにすこぶる魅力的に紹介し、教えてくれ『エセー』の読了にまで導いてくれたのは堀田善衛『ミシェル 城館の人』だった。いずれ作品群に当たってみたいが、まずは作家の全体像を知りたくて水溜真由美『堀田善衛 乱世を生きる』(ナカニシヤ出版)を手にした。

堀田はモンテーニュのほかに鴨長明藤原定家ラ・ロシュフコーゴヤたちをとりあげていて、かれらは反逆者、革命家というよりは傍観者に近かったが、堀田はその傍観に「乱世を生きる知識人が、消極的な仕方であれ抵抗し続けること、あるいは徹底的に覚めていることの可能性と意味」を追求したと水溜さんは論じている。

そうなると思いあわされるのは永井荷風だ。戦時中沈黙を守った荷風は東京に沈潜しながら世情の観察を日記にしるした。国内亡命者としての態度をつらぬいた荷風をどのように評価するかは人それぞれだが「日本の知識人がみんな永井荷風であっても、ファシズムをどうすることもできない。しかし実情は知識人の大部分が、荷風でさえなかった」(加藤周一「戦争と知識人」)のはまちがいない。

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これまで名前を知るだけだったフランス文学者、河盛好蔵のエッセイ集『河岸の古本屋』(講談社文芸文庫)を読み、これからもおつきあいを願いたいと早稲田の平野書店で『河盛好蔵 私の随想選』全七巻を買い、送料がもったいないのでデイバッグにいれて担いで帰宅し『渡辺一夫著作集』全十四巻のとなりにならべた。

昨二0一九年二月にチュニジアを旅したのを機に辻邦生『背教者ユリアヌス』を読み、ついで堀田善衛『ミシェル 城館の人』に触発されモンテーニュ『エセー』へと進んだ。六月には旅順、大連、金州を廻り、帰国して『清岡卓行 大連小説全集』にとりかかった。

辻邦生堀田善衛清岡卓行、いずれも若き日フランス文学を学んでいる。そして三人に関係する人として渡辺一夫が意識され『渡辺一夫著作集』全十四巻が書架にならんだ。渡辺は堀田には友人であり、辻、清岡には師にあたる。そうしてここへきて『河盛好蔵 私の随想選』の架蔵となった。

海外に行き、本の世界を往来するうちにずいぶんフランス文学とご縁ができた。みょうなことになってしまった気がしないでもないが、心のおもむくままにさすらうのは無職渡世の自由人の特権と納得しておこう。大部の著作をどれほど読み、使いこなせるかはともかくとして。

河盛好蔵の本をならべて著者の年譜を眺めているとおどろきの晩年があった。

一九七二年古稀となって以後の足どりを抄録してみると、七十歳の年の九月から十一月までボードレール探訪のため渡仏し、途中ベルギーへ足をのばした。

七十三歳の年、五月から八月まで渡仏。

七十四歳の年、八月から十月まで渡仏。

七十七歳の年、四月から十月まで渡仏。

七十九歳の年、六月から十月まで渡仏。

八十一歳の年、七月から十月十月まで渡仏。途中ポルトガルへ足を運んだ。

八十二歳の年、七月から十月にかけて渡仏。

八十四歳の年、七月から九月にかけて渡仏。

八十五歳の年、七月から十月にかけて渡仏。このかん九月にイスタンブールを訪れた。後半のフランスへの旅マラルメ研究を目的としていた。

この元気な足どり、健康寿命はたいしたものだ。ちなみに厚労省国民生活基礎調査をもとに算出した二0一六年の健康寿命は男性七十二歳、女性七十四歳である。

ことし古稀を迎えるわたしの六十代の主たるたのしみは海外旅行だったから河盛好蔵のこの足どりと活力は余計に目を引く。これを可能にしたのはいうまでもなく心身の健康充実と経済力だった。ひるがえって当方いまのところ心身はともかく、経済力となると心許なく、二千万円ほどなければ老後の安心はないとなると、さて……と七十代を憂うるのだった。

なお河盛好蔵は一九八九年に脳梗塞を患ったがリハビリを続け一九九八年には『藤村のパリ』で読売文学賞を受賞した。亡くなったのは二000年三月二十七日九十七歳だった。

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パンダは他の動物との激しい生存競争を回避し、あえてカロリーの低い笹を主食としたんですって。そのぶん激しい活動は避け、長い時間寝て、ゆるい生活を送っている。長い進化の過程でかれらはこのライフスタイルを最善、最適としたわけだ。

わたしは低カロリーの食物ばかりはいやだが、パンダのやっかいなことを避けようとする姿勢には共感するぞ。

生来、だいじなことやうるさいことに立ち向かっていくより、回避しようとする性向が強く、できれば仕事からも逃れたかったのだが、どうしようもなくてとうとう定年まで勤めた。小さいときから外国への関心が強かったのも身近なことを厭うことの裏返しであっただろう。報道でも海外専門のニュースが好きだ。

石原裕次郎「赤いハンカチ」の歌詞にある「死ぬ気になれば二人とも霞の彼方に行かれたものを」に、小学生だったわたしは言い知れぬ魅力を覚えた。恋も愛も知らないのにだれも知らない街への逃亡は本能的に理解していたとおぼしい。というわけでことしはじめて読む長篇小説を吉村昭『長英逃亡』に決め、とりかかった。