ミモザとアカシア

ご近所を散歩していたところ花屋さんの掲示板に、三月八日はミモザの日、イタリアで男性から女性にミモザの花が贈られるようになったことに由来していますといった旨のことが書かれてあった。帰宅してネットをみると三月八日の国際女性デーの日にもとづいてイタリアではこの日をミモザの日としたという事情がしるされていた。

ミモザを知ったのは奈良光江が歌ってヒットした「赤い靴のタンゴ」で、中学生のとき、テレビで彼女が「春はミモザの花も匂う」と歌っているのをみて、そのときはこの花の色も形も知らなかったけれど、微かに愁いを含んだ素敵な美人歌手に似合いなんだろうと想像した。ミモザそうしてマロニエ、リラの花の彼方にはおしゃれなヨーロッパがあった。

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』に花々を拾ってみたところ「四月の白きリラの花、野ばらの花も」(ギュスタアヴ・カアン「四月」)、「夕立にうたれるダリヤの初花」「唐辛の紅色と黄橙の焔の色」「甘きタマリの一株」(伯爵夫人マチユウ・ド・ノアイユ「西班牙を望み見て」)などがあった。

ミモザと聞くとアカシアを思う。ミモザとアカシアについて簡単に整理しておくとアカシアはヨーロッパに持ち込まれたとき「ミモザ(オジギソウ)に似たアカシア」ということで「ミモザアカシア」と呼ばれたが、ミモザとは別物でミモザマメ科オジギソウ属、アカシアはマメ科アカシア属で異なる植物である。(Wikipedia

二0一九年の夏に大連、旅順、金州を廻り(下の写真はそのときのもの)帰国して名前のみ知る作家だった清岡卓行の『アカシヤの大連』を、ついでおなじ作者の大連にちなんだ作品を集成した『清岡卓行大連小説全集』を読んだ。旅がもたらしてくれた予期せぬ読書体験だった。

「それは、かつての日本の植民地の都会で、ふしぎにヨーロッパふうの感じがする町並みであった」

「五月の半ばを過ぎた頃、南山麓の歩道のあちこちに沢山植えられている並木のアカシヤは、一斉に花を開いた。すると、町全体に、あの悩ましく甘美な匂い、あの、純潔のうちに疼く欲望のような、あるいは、逸楽のうちに回想される清らかな夢のような、どこかしら寂しげな匂いが、いっぱいに溢れ…」

作者が伝える大連はこうした都会であり、戦前の『国民百科大辞典』には「邦人ノ建設シタ最初ノ近代的都市デ、市街ノ壮麗ナコト《東洋ノ巴里》ノ称ガアル」と記述されていた。

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《東洋ノ巴里》の歴史を簡単にみておこう。

ことは日清戦争にさかのぼる。戦勝国となった日本は遼東半島を獲得したが三国干渉により手放さざるをえず、そのあとロシアが清国と条約を結んで関東州を租借し、青泥窪(チンニーワ)をダルニーと名づけ、ここにパリを模範とする美しい町を建設しようとした。

ところが日露戦争により建設は頓挫した。

日露戦争後、日本は関東州を租借しダルニーを大連と名づけ、ロシアが近代文明の花を咲かせようとした都市計画を拡大的に受け継いだ。何個かの円形の広場を設け、そこから放射状にいくつかの街路が伸び、アカシヤとポプラが植えられプロムナードとなった。満鉄が経営する豪華なホテルがあり、ヨーロッパ人の客が多く、ほとんど砂浜だけで入江をなす星ヶ浦にならんでテニス・コートやゴルフ場や公園などがあった。

清岡卓行がいう「ふしぎにヨーロッパふうの感じがする町並み」は建設にあたったロシアにも日本にもない光景だった。そして建設はあくまで侵略を前提としていた。清岡卓行はその点を踏まえつつロシア側の建設の中心人物だったサハロフに呼びかける、大連という都会の独特な美しさをきみと同じように愛する、と。

清岡卓行の言葉からは、大連を恋うる詩人、作家の情感、植民地という翳りをともなう抒情が伝わって来る。と同時に「東洋ノ巴里」にはアカシアが、本家のパリにはミモザが似合いだったとすればアカシアはミモザの代替品、もしくは植民地に咲いた徒花だったのかと意地の悪いことも浮かんでみょうに複雑な気持になる。