三度目のソウル

むかし島原に物忘れをよくする遊女がいて一夜を過ぎると前夜のお客の顔さえすっかり忘れてしまう。ところが、あんなに忘れっぽくてもどこか誠がありそうだから、あなただけは忘れないと言ってもらえる男はいるだろう、我こそその男になってみたいとみんながせっせと通ってたいへんな人気だったという。薄田泣菫の名物コラム『茶話』より。
人情の機微をついて、ニヤリとさせられたが、残念ながら話の出所は示されていない。どなたかご存知の方教えてください。
おなじ『茶話』からもうひとつ。
「貴方(あんた)はん、また雷鳴(かみなり)どつせ。どないしまほ、妾(わて)あれ聞くと頭痛がしまつさ」とあまえるように男の顔を見る遊女はじつのところ雷は嫌いでもなんでもなく、こうすれば男の目に優しく美しく映ると知っているから。
物忘れも雷も商売にした遊女が逞しい。
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「ゲット・ショーティ」「ジャッキー・ブラウン」「アウト・オブ・サイト」などなどエルモア・レナード原作の映画はけっこう見ている。もちろん新旧の「3時10分」も。けれど著者の名前を知るだけで小説は未読だったところ、さきごろ村上春樹訳『オンブレ』が新潮文庫で刊行され、ようやく表題作と所収の「三時十分ユマ行き」を読んだ。
ミステリー、エンターテイメント大好きなのに、エルモア・レナードを読んだことがないとはなんたることか!村上春樹の訳本で、レナードはわたしの死角に入っていたと気づいた。そういえばウェスタン小説を読んだのもこの本が初めてだった。
『オンブレ』の訳者解説によると、アメリカ本国に較べて日本でのエルモア・レナード人気はイマイチで、各社の編集者は「レナード、思うように売れないんですよね」とこぼしていたそうだ。遅ればせではあるがここへきてようやく読んでみようとなった。まずは村上春樹おすすめの『ラブラバ』から。
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花のたよりに誘われるようにソウルに来て花々に目を奪われている。李氏朝鮮の王宮昌徳宮には桜とともに李王朝の国花だった李(すもも)がけっこう咲いている。これまで公務で二度来ているが、三度目のソウルは自費、旅行は身銭を切ってしなくてはいけません。
 
昌徳宮を出て明洞や南大門をぶらついているとむやみにスターバックスの店舗が目についた。まえに来たときはこれほどはなかったと思うが、なかに一軒だけハングル文字で書かれたお店があり、オッ!だった。

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宿泊しているホテルが日本大使館に近く、そこで慰安婦問題の政治的解決に反対する人たちが大使館近くに慰安婦像を設置したという報道を思い出し、さっそく像を見に行った。像の脇には、慰安婦問題についての日韓両国の合意に反対する人たちが、ビニールのテントを張り撤去や傷をつけたりする動きを監視している。緊張はなかったが、テント内の人たちは写真を撮っていたオジン(わたしのこと)を何者と見たか気になった。

なお本ブログニ0一五年九月二十五日の記事でわたしは従軍慰安婦問題についての考えを述べており、以下にその一部を再掲しておきたい。
「昨年朝日新聞は軍による強制連行についての報道を誤報と認めたが、軍人が公務として朝鮮人女性を慰安所へ直接連行していたなんてふつう考えられない。しかし業者に依頼されて私人として行為に及んだ事例はあったかもしれない。
強制連行という直接に手を下した行為は別にしても、広い意味で陰に陽に軍は慰安所に関与していたのは否定できない。慰安施設を設置するにも軍の許認可を必要としていたし、そのほか具体にどういうかたちで関与したのかについての客観的証拠や史料があればよいのだが、いまとなっては難しいだろう。ただし推し測るに価する材料はないわけではない。
昭和戦前の軍部と、外地における娼妓との関連について永井荷風断腸亭日乗』一九三八年(昭和十三年)八月八日に以下の記事がある。
『八月八日 立秋午後土州橋に行き、薬価を払ひ、水天宮裏の待合叶家を訪ふ。主婦語りて云ふ。今春軍部の人の勧めにより北京に料理屋兼旅館を開くつもりにて一個月あまり彼地に往き、帰り来りて売春婦三四十名募集せしが、妙齢の女来たらず。且又北京にて陸軍将校の遊び所をつくるには、女の前借金を算入せず、家屋其他の費用のみにて少くも二万円を要す。軍部にては一万円位は融通してやるから是非とも若き士官を相手にする女を募集せよといはれたれど、北支の気候余りに悪しき故辞退したり。北京にて旅館風の女郎屋を開くため、軍部の役人の周旋にて家屋を見に行きしところは、旧二十九軍将校の宿泊せし家なりし由。主婦は猶売春婦を送る事につき、軍部と内地警察署との聯絡その他の事をかたりぬ。世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言ひながら戦地には盛に娼婦を送り出さんとする軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし。』
この記事を読む限り、開戦前の昭和十三年の時点でも外地での娼妓の募集は相当に難渋していた。これが十二月八日のあとになるとさらにむつかしくなっただろうし、朝鮮人慰安婦を集めるにもだいぶん無理をしなければならなかったのではないかと考えられる。」
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葉桜の季節が過ぎようとする頃、自宅に近い根津権現ではつつじまつりがはじまり、およそひと月のあいだ目を楽しませてくれる。さいしょの咲き具合はそれほどでもなく、だんだんと咲き誇るようになるが、ことしははじめから豪華に咲いている。桜の開花が例年よりも早かったから、それと連動しているのだろうか。
近辺を歩いていると英語で根津神社への道を訊かれた。中年のご夫婦で奥さんの額に赤い丸状のものがある。インドからの旅行者で、つつじまつりは海外にも聞こえている。なお額のものについて調べたところ、ビンディーやティラクなどと呼ばれていて原則既婚者で夫が生存する女性が付けるとあった。

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経済協力開発機構OECD)のグリア事務総長は(4月)13日、麻生太郎財務相と会談し、日本の消費税率は将来的に、OECDの加盟国平均の19%程度まで段階的に引き上げる必要がある、と提言した」との報道があった。こういう記事を読むとEUからの離脱を支持する人たちの気持が理解できるな。
グリア事務総長が世界経済や日本の財政収支の現状を考えたうえで提言したのはわかる。しかし、この国で生活していない者が主権国家の消費税率についてあれこれと口を挟むな!と咎めたくなる気持をわたしは否定できない。
EUに反撥する人たちも、自国の問題についてブリュッセルEU本部の役人たちがあれこれと口出しするのを疎ましいと感じているような気がする。しかも役人たちの任免について、自分たちの投票行動による意思表示はできない。そうしたストレスが移民政策と相まって反EUの感情を生んでいるのではないか。
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セクハラで退職した財務省事務次官、買春で辞職した新潟県知事、ともに経歴からして学校では秀才だったが大人の社会常識や見識という点ではだいぶん劣っていたようだ。二人には、偏差値の高さと、ものごとの判断力とは別物だった。
いまある社会的地位を考慮に入れた判断ができなかったのはどうしてか。権力欲の人一倍強い元気人間の色と欲への執着が自制心と判断力を弱めていたのだろう。「すいません、おっぱい触っていい?」「手縛っていい?」の事務次官の「全体の文脈から判断してもらえればセクハラでない」という支離滅裂な発言にそのことはよく示されている。
そのうえでわたしには不可解な点がある。
事務次官のセクシャル・ハラスメント行為は本年四月四日、そのときテレビ朝日の女性記者は身を護るために隠し録りを行ったという。つまり会食を重ねるなかで同様の行為があり、記者はやむなく録音をしたわけだ。
「全体の文脈」をよく承知していないので以下、推測、可能性の話になるのだが、レストランでの会食と取材は記者の相手がまっとうならばまだしも、ヤバイ相手であれば、記者がそれを会社に提起した時点で打ち切るとか、複数の記者による取材に切りかえるとかの措置をとれたはずだ。それに毎度一対一で会食しなければ取材にならないものでもないだろう。テレビ朝日は被害者のスタンスをとっているようだが被害者は女性記者であり、会社の対応は不可解であり納得いかない。
その会食だが、セットしたのは事務次官テレビ朝日か、記事を読み落としているのかもしれないがはっきりしない。事務次官であればその人品骨柄からして下心があっただろう。テレビ朝日がセットしたとして、こちらも女性をアピールした下心が推測される。しかもセクハラ対応はとっていない。事務次官はもとより会社としても女をウリにした一対一の会食と取材が都合がよいと思っていたとすれば、これがまっとうな取材活動と言えるのだろうか。
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新聞に、アナログレコードが脚光を浴びているとの記事があった。その昔、幼い子供がプレイヤーのアームをつかみ、レコードにこすりつけたものだから盤は傷だらけ、針はだめになって以来、わたしは世を儚んでこの趣味をあきらめた。その後CDを三百枚ほど持っていた時期もあったがいまは売り払ってない。
といっても音楽とは親しんでいて、レコード、CDがなくてもyoutubeAmazonミュージックなどの音源があり、場所と金をくうオーディオ趣味は不要となった。いまは主にiPhoneもしくはiPadのブルーツース機能で小型スピーカーを鳴らしていて、耳が肥えてないので大満足している。
断捨離ですっきりと、持たない生活の爽快を体感したい。歳とともに執着は減らしてゆかなければならない。貧乏な老骨の生活にもまだまだ工夫の余地がありそうだ。