「排除の論理」

昨年の衆議院議員選挙で、希望の党が安倍政権の存続を脅かすかもしれないと注目を集めながら当時党代表だった小池百合子東京都知事の「排除」発言を機に急速に勢いが衰えたのは記憶に新しい。民進党前原誠司代表は、希望の党にまるごと合流する意向だったが、希望の党は受け入れる者を選別する方針を示した。
報道によれば「(民進党議員は)公認申請すれば排除されない」という前原氏に対し小池氏は「排除されないということはございません。排除いたします」と応じている。また記者会見では「全員受け入れるようなことはさらさらない」と語り、「排除するんですか」と質問した記者に「排除いたします」と言い切った。専横のイメージを気にしてかすぐあとで「絞らせていただく」と言い直したが、すでに「排除の論理」は四方八方へと駆け抜けていて、小池氏の政治家としての器量、度量、包容力、寛容度に失望が高まった。
戦略的な言葉選びに長けた小池氏である。知識の収集や表現力、タイミングの計り方などそのための努力は惜しまなかっただろう。ところが総理大臣の椅子が視野に入りかけたところで一番得意だったはずの言葉選びでつまずいた。他人に足を払われたのではない、自分で転んでしまった。
ことわざにいう「百様を知って一様を知らず」。
「知識の収集家にも、自分のコレクションを、陶然と、眺めているのでは間に合わない時が、時折、やってくる。『百様』ではなく『一様』を知っているかどうか、まさにこれが決定的となる人生の瞬間、長年の間、手塩にかけて使いこんだ知識があるかどうか、それが人生の分れ目となる時がくる」(京極純一『文明の作法』)
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総選挙後の組閣で外務大臣河野太郎氏が任命された。安倍一強といわれる自民党内にあって、原発夫婦別姓靖国神社などについて首相とは異なる議論を繰り返してきた人だから、意表を突く人事といってよく、自民党の海千山千のふるつわものたちのマンネリズムと比較するとすこしは新味を感じた。
河野氏に友人が「なぜ左寄りの主張をするの」と訊ねたところ「そもそも自民党支持者は保守の人が多い。もっと支持を広げるなら、左に伸ばすのは当然 」と答えが返ってきたという。ウイングを広げ、多様な主張を党に取り込むという思考は「排除の論理」の盲点であり、期せずして小池氏への批判となっている。
余談だが、ある週刊誌によると、外相に就いてからの河野氏はかねてからの主張を変えたり封印したりしているそうだから、これまでの言論の本気度が問われている。
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ならば国民政党として、凝り固まったイデオロギーや宗教宗派にとらわれず、ウイングを広げるとよいかといえばそこにはまた別の問題がある。民主党政権の中枢にいた岡田克也氏がどこかでおこなった講演のなかで民主党について「自由な議論ができるよい党だけれど、決まったら従おう。次に代表として誰が選ばれるにしても、みんなで支える。そういう党でなければならないと申し上げたんですが、この問題、いまだに引きずっていると思うわけです」とその悩みを語っている。
ここから窺うに、あの党は「排除の論理」もなかった代わりに、意思決定したことがらを挙げて実行する力を欠いており、党運営のまずさは政権運営の下手に通じていた。その生き残りの議員諸公が政党名を変え、別の党へ集団移籍しても、岡田氏の指摘した症状に応じた即効の対症療法があるかどうかは大いに疑問だ。
ジャーナリズムから「排除の論理」とやり込められるのは避けなければならない。けれど、だれと組むか、いずれを同志とするかは大きな問題で、組織は成ったが甲論乙駁で収拾がつかなくなるではいずれ世間から愛想をつかされる。もとより政治の世界だけの話ではない。ただ、政界というところは陣笠といわれる人たちでも選挙を通過してきたお山の大将たちの集まりであり、その編成の難渋しがちなのは今回の「排除の論理」をめぐる騒動がよく示している。