新コロ漫筆~政治と言葉

先日YouTube田中均氏(元外務審議官、現在日本総研国際戦略研究所理事長)が、安倍、菅内閣に共通する特質について三つの点を指摘していた。すなわち「説明しない」「説得しない」「責任をとらない」 の3Sである、と。

三つのうち説明と説得は政治と言葉の問題で、国会での質疑や記者会見を見ているとこの問題をめぐっては惨めな状態にあるとしか思えなかった。原因としては首相の資質、与党の圧倒的議席数からくる緊張感の欠如と開き直り、異論を嫌う党内力学、政府とマスコミとのいびつな関係などが考えられ、とくに菅前首相については質問にまともに答えないという批判が絶えなかった。

なお、政府とマスコミとの関係については首相会見での質問は一人一問、質問に答えなかった点の回答を改めて促したり、回答で現れた矛盾点などをさらに質問する「更問い」(さらとい)は事実上禁止されている、またほんとうかどうかは知らないけれど、鋭い質問を繰り返していると首相や大臣への質問者に指名されなかったり、担当記者の更迭要求が出たりすると仄聞する。

ここで思い出されるのはフランスの啓蒙思想ヴォルテールの政治と言葉をめぐる見解である。

貴族とのトラブルでバスチーユに投獄されていたヴォルテールが、亡命を条件に出獄し、イギリスに渡ったのは一七二六年、そしてパリに戻ったのは翌々年の二八年だった。このかんヴォルテールはイギリスの政治、思想、文化に大きな刺激を受け、一七三四年四十歳のとき、イギリスでの見聞、観察、考察をまとめた『哲学書簡』を発表した。

なかで政治と言葉について、ロンドンには議会で演説して国民の利益を擁護する権利をもつ者がおよそ八百人、そういう栄誉をこんどは自分に与えてほしいと主張する者がおよそ五、六千人いて、その他の国民はみんなこれらの人々を審判するのは自分の役目だと思っている、そして国民は誰でも公的な問題について自分の考えを印刷して発表することができる、そのためには識見を高め、議論を公にする必要があり、これに向けての勉強がごく自然に文学にもつながってゆく、と述べた。

ヴォルテールはいささか同時代のイギリスをかいかぶっていたかもしれない。しかしここにある政治と言葉と識見との関係と、説明も説得もはなはだしい希薄化状態にある日本の現状とを比較すれば、なんだかわたしたちは「民主主義もどき」のなかで生きている気がする。

「説明しない」「説得しない」「責任をとらない」内閣とは換言すれば国民に情報を開示する、真相を明示する明確な意思をもたない内閣にほかならない。

はじめペルーで確認された致死率の高いラムダ株が東京五輪開幕の七月二十三日に日本国内で解析され、国際機関には報告しながら、国民には八月六日に一部報道されるまで知らされなかった件はそのことをよく示している。「早く発表すべきだったが、政府の中でも情報が共有されていなかった。(八月六日に厚労省が明らかにしたのは)報道機関から問い合わせがあったから答えた」と自民党佐藤正久参議院議員が語っていたが、にわかには信じ難い釈明であった。

それからはや二か月、十月四日に自民党岸田文雄総裁が衆参両院本会議の首相指名選挙で第百代、六十四人目の首相に選出され、岸田内閣が発足した。新首相は同日夜に記者会見に臨み、政権を「新時代共創内閣」と名付け、「私が目指すのは新しい資本主義の実現だ」と述べ、成長戦略とともに富の再分配を重視する考えを強調した。目先の抱負を語るのはけっこうだが、3S状況にある日本の民主主義の修復をも願っておきたい。こちらは「新しい資本主義の実現」とちがい、意を決すればその日からできる。