一月五日に羽田を発ってベルリン、マイセン、ドレスデン、プラハ、チェスキー・クロムロフ、ウィーン、ブダペストを廻り、十二日に帰国した。このうちプラハ以下は二度目だが、ドイツへは今回がはじめてである。
人にもよるだろうがドイツへ来ると神聖ローマ帝国のむかしは二の次で、まずはナチスや冷戦の時代に思いが及ぶ。有名な大聖堂や教会よりもゲシュタポ本部跡、国会議事堂放火事件の議事堂、ベルリンの壁などへの視線がおのずと強くなる。
今回の旅のタイミングに合わせるかのようにジョン・ル・カレの新作『スパイたちの遺産』(加賀山卓朗訳、早川書房)が刊行され、ルフトハンザ航空機での読書はこれと決め、出発の前日に購入したのだが、そうなると翌日まで待ちきれない。なにしろ『寒い国から帰ってきたスパイ』のラスト、ベルリンの壁からの脱出に失敗し、射殺されたイギリス情報部のアレック・リーマスと恋人エリザベス・ゴールドの事件がいまにになって問題視されたというのだから。
リーマスが東ドイツへ行ったのは二重スパイを装い虚偽の情報を流して、東ドイツ諜報機関にいる「もぐら」の地位を保全するためで、イギリス共産党の党員ゴールドは交換党員プログラムで東ドイツへ来ており、事情を知らないままリーマスに協力する。「もぐら」の安全を確保した二人は当の「もぐら」の指示でベルリンの壁からの脱出を図るが最後の段階で発覚し、射殺される。
「エリザベス・ゴールドはベルリンの壁で撃ち殺され、恋人のアレック・リーマスも彼女を救おうとして、あるいはたんにいっしょに死のうと決意したのか、どちらにせよ苦労の甲斐なく撃たれた」(『スパイたちの遺産』)のだった。
じつはリーマスにはドイツ赴任中、親しくなったドイツ人女性とのあいだに男児がいて、ゴールドもリーマスと知り合うまえ未婚の母として女児を出産し、ゴールドの両親の意向で施設にあずけられた。
それからおよそ半世紀、リーマスとエリザベスの遺児はベルリンの壁における事件をめぐり、民事訴訟もしくは私人訴追を考えているらしく、そこでフランスで余生を送っていたリーマスと親しかった同僚ピーター・ギラムが英国情報部に呼び出され訊問を受ける羽目になる。
『寒い国から帰ってきたスパイ』および『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』のスピンオフとして堪えられない展開であり、フライング気味に読みはじめた『スパイたちの遺産』を機内で興奮のうちに読み終え、ベルリンの壁の跡を訪れた。
米ソ冷戦の象徴としての壁はシュプレー川に沿っておよそ1.3kmにわたり残されており、多くの国の芸術家による壁画が描かれている。なかでも「ホーネッカーとブレジネフの熱いキス」は戯画として人気を呼んでいる。また二重の壁も一部保存されており、二つ超えての脱出は大変だなと思ったものだった。
「リーマスはリズの腕をつかんで、やみくもに突進した。左手をつき出してすすむと、急にザラザラしたシンダー煉瓦に触れた。壁だ!顔をあげると、有刺鉄線と、それを抑えている鉤の所在に見当がついた。壁面の煉瓦に、登山家の使うピトンに似た鉄くさびが打ち込んである」というのが『寒い国から帰ってきたスパイ』にある壁の形状だ。
映画ではリチャード・バートンとクレア・ブルーム(チャップリン「ライムライト」のヒロイン、「英国王のスピーチ」では主人公ジョージ六世の母親メアリー王太后として健在ぶりを示した)が演じている。そうして『スパイたちの遺産』ではこの出来事の前日譚、後日譚とともに二人の射殺の真因、裏の事情が解き明かされる。
ジョン・ル・カレの新たな傑作を読んだ翌朝にはじめて目にしたベルリンの壁だった。