首尾一貫

春色梅児誉美』を代表作とする江戸時代後期の戯作者、為永春水は江戸の男女の恋愛模様を色濃く綴って人情本というジャンルを確立した。

しかしながらその内容が淫らであるとして一八四一年(天保十二年)暮れ、北町奉行所へ召出され、 翌年手鎖五十日の刑を受けた。このときの北町奉行遠山景元で、取調べを受けた春水は質素禁欲の号令がかかる天保の改革の犠牲となった。

手鎖刑は春水の肉体精神両面にわたり苦痛をもたらしたと伝えられ、翌一八四三年(天保十四年)十二月二十二日五十四歳で 歿した。

春水を高く評価したひとりに永井荷風がいて「為永春水」という評論とともに詳しい年譜を作成している。

その評論に荷風は「春水の人情本は若い男女の恋愛を骨子として毎編惓むことなく之を繰返してゐるが、一つとして不義破倫の恋を写したところがない。人の妻と通じたり年上の女を犯したりするやうな処は決してない。この事よりして見れば源氏物語などより遥に健全である」と述べている。

荷風も自身について似たようなことを書いていて『断腸亭日乗』昭和三年十二月三十一日の記事には「女すきなれど処女を犯したることなく、又道ならぬ恋をなしたる事なし、五十年の生涯を顧みて夢見の悪い事一つも為したることなし」とある。

自分は処女を犯したり、素人の女を泣かせ、迷惑をかけたことはない、 その点は春水の人情本とおなじというわけだ。はじめはそれほど自慢の種になるものなのだろうかと納得はしかねたけれど源氏物語よりはるかに健全であるといわれるとさすがに凄いものだなと唸ってしまいました。

為永春水人情本にたいする評価と自身の自慢話から窺われるのは荷風儒教尊重の心で「夢見の悪い事一つも為したることなし」という女性との関係はその政治的態度にも連なった。

第二次世界大戦における枢軸国の原型となった日独伊三国同盟がベルリンで調印された のは一九四0年(昭和十五年)九月二十七日だった。翌日世間の歓呼をよそに荷風は日記に「晴。世の噂によれば日本は獨逸伊太利両国と盟約を結びしと云ふ。愛国者は常に言へり、日本には世界無類の日本精神なるものあり、外国の真似をするに及ばずと、然るに自ら辞を低くし腰を屈して、侵略不仁の国と盟約をなす、国家の恥辱之より大なるは無し、其原因は種々なるべしと雖、余は畢竟儒教の衰滅したるに因るものと思ふなり。燈刻漫歩。池之端揚出しに夕飯を喫し、浅草を過ぎて玉の井に至る」と書いた。

ここにあるように荷風はドイツ、イタリアを「侵略不仁の国」と断じた。つまり男女の関係でいえば為永春水論の「不義破倫」「人の妻と通じたり年上の女を犯したりする」国であり、また荷風日記の「女すきなれど処女を犯したることなく、又道ならぬ恋をなしたる事なし」とは逆側にある国で、こうして見ると、男女の関係から国家のありようまで矛盾なく首尾一貫している。またこの日、荷風玉の井の私娼街に行ったのもなにやら因縁めいている。