中欧の旅で映画とミステリを思う(其ノ四)

今回の旅の最終地はチェコの首都プラハ
わたしにとってチェコスロバキア(いまはチェコスロバキアはそれぞれが独立した国になっている)はとても気になる国だった。さいしょこの国を意識したのは東京オリンピックのときの女子体操選手で個人総合ならびに平均台跳馬のゴールドメダリストとなったベラ・チャスラフスカ選手をつうじてだった。そのころの女子体操の世界はナディア・コマネチ以後のアクロバティックな技を競いあう前の、技と女性美の時代だった。いまの語感からすればセクハラ気味になるのかもしれないが、「東京五輪の名花」と讃えられた当時二十二歳のチャスラフスカの見事な技と華やかで気品ある美しさに地方のやんちゃな中学生は息をのんだ。チェコはチャスラフスカ選手の国だった。

そのチェコスロバキアが高校生のときソ連に軍事占領されてしまったのだ。詳しい事情はわからなかったが、高校生の目に「プラハの春」という民主化運動を武力にものをいわせて占領弾圧したソ連のほうが悪いに決まっている。しかも、新聞でソビエト共産党のブレジネフ書記長のツラを見てチャスラフスカと対比しているのだから、筆は一本、箸は二本衆寡敵せずどころの話ではない。思えばこういうところに後年わたしが永井荷風イカレてしまう素地があったんですねえ。ニュースを見たり聞いたりしているうちに「プラハの春」を推進したために失脚したチェコスロバキア共産党ドプチェク第一書記も忘れられない名前となった。といった事情でチェコはとても気になる国であり続けた。
ずっとのちにチャスラフスカが「プラハの春」の改革運動を支持するとともに自由化、民主化を推進しようと呼びかけた「二千語宣言」に署名し、改革が挫折したのちも社会的経済的不利益と弾圧を蒙りながら志を曲げなかったと知った。
一九八九年ベルリンの壁は崩壊し、冷戦構造は終結した。チェコ社会主義体制と訣別した。それは「ビロード革命」と呼ばれるスムーズな別れであり、これを機にチャスラフスカもドプチェク復権、復活を遂げた。
     □
オーストリアからチェコへ。ザルツブルグからおよそ三時間バスに乗り、訪れたのはチェスキー・クルムロフ、南ボヘミア州の小さな都市で、クルムロフ城を含む優れた建築物と歴史的文化財で知られる。ドイツ領だった時代もあり、ドイツとの関係で政治的にはむつかしい地域で、町の景観を取り戻そうと建造物の修復が本格化したのは一九八九年のビロード革命以降だそうで、現在はユネスコ世界遺産に登録されて人気のある観光地となっている。
 
     □
チェスキー・クルムロフから三時間ほどバスに乗りようやくプラハへ到着。ホテルへ荷物を置くとすぐにまたバスに乗り夕食のビアレストランへ行った。ここでようやくピルスナー・ウルケル(ピルゼン・ビール)と出会った。そう、世界的に有名なチェコ・ビールの銘柄。エーデルワイスののどごしさわやかとは異なって、こちらはコクの強い、重厚な感じのする麦酒だ。

開高健が「地球はグラスのふちを回る」に「泡はこまかくて、白くて、密であって、とろりとしている。よく冷やしてあるので、チューリップ型のグラスは汗をかいている。グッと飲む。クリームのような泡が舌にのる。その濃い霧をこして、とつぜん清冽な、香り高い、コハクの水がほとばしる。クリームの膜が裂けて、消える。清水が歯を洗い、のどを走り、胃にそそぎこむ・・・・・・」と書いてこのビールを讃えている。
レストランでは従業員による演奏がおこなわれていた。わたしたちの席の奥にいたアメリカの団体のお年寄りたちはダンスに興じていたが、わたしたちはそこまでノリがよろしくなくもっぱら歓談と料理だった。

レストランで聴いた「ビア樽ポルカ」の演奏に心ウキウキとなり、ホテルに帰りipodTouchで同曲を検索すると、アンドリュー・シスターズと藤山一郎のヴァージョンがあり、これでまた缶ビールのウキウキが続いた。
ついでながら映画「存在の耐えられない軽さ」でダニエル・デイ・ルイスのトマシュとジュリエット・ビノジュのテレーザが「プラハの春」への弾圧を避けて移住した農村にダンスフロアのあるバーがあり、ここで踊るシーンがある。年輩の男女によるピアノとバイオリンがここでも「ビア樽ポルカ」を演奏していた。作者のミラン・クンデラは「四十年前の古い流行歌」が流れていてフロアーには五組ほどの人が踊っていた、と書いている。小説はこれでよいが映画となると「古い流行歌」だけでは、それこそ絵にならない。そこでフィリップ・カウフマン監督が選曲したのがこの曲で、調べてみると一九二0年代後半から三0年代前半あたりにチェコで作曲されたポルカとあったから一九六八年の「プラハの春」から数えるとちょうど四十年ほど前にあたる。
     □
「ビア樽ポルカ」の翌朝は大統領官邸もあるプラハ城へ行き、聖ヴィート大聖堂、旧王宮、聖イジー教会、黄金の小径などを見、そのまま歩いてヴルタヴァ川(モルダウ)にかかるカレル橋を渡り市街へと向かった。

カレル橋についてはおなじく「存在の耐えられない軽さ」に川のほとりにいるテレーザを橋の上からトマシュが捜す印象的なシーンがある。
  
ピルスナー・ウルケル付きの昼食後の自由行動では旧市庁舎の天文時計塔にのぼって市内を一望し、カレル橋に引き返し大道ミュージシャンのジャズを聴き(大好きな「素敵なあなた」と「プチ・フルール」の演奏があり、思わずカンパを増額)、旧市街広場のカフェで一休みして、ミュシャの美術館へ足を運び、新市街でショッピングのあとヴルタヴァ川のほとりを散策した。
  
たぶん絶版だろうがハヤカワ・ミステリにイギリスの作家ライオネル・デヴィッドスンの『モルダウの黒い流れ』(宇野利泰訳)という一冊がある。
今回の旅を機に再読したが、そのなかでプラハの街が「プラーハは、ヨーロッパの首都のうちでも、どこにもまして、清教徒的なすがすがしさに満ちた街である。(中略)ロマンティックな雰囲気が、街の上を漂っている。日が暮れると、河岸にならんだ菩提樹の樹々のあいだに、街灯がともされる。むこうの高台に聳えている、尖塔をそなえた大統領官邸のほうから、名残りの陽光が流れてきて、サフランの突端をきらめか」すといったふうに描かれている。一九六0年に発表された小説だがプラハの街に立つと半世紀以上経過していてもこれとおなじ情景に出会う。

ところでこの『モルダウの黒い流れ』については先日亡くなられた丸谷才一先生が『深夜の散歩』に、イギリスの古典的冒険小説『ゼンダ城の虜』と比較した評論を書いている。二つの物語は、半世紀をへだてているけれど、どちらも「イギリスにおける怠け者の青年が、ひとたび外国へゆけばどんなに見事な働きをするかという、勇猛果敢にしてかつ愉快な冒険談」なのだが、そこには大きな違いがあって、アンソニー・ホープの小説は宮廷愛とヴィクトリア時代の禁欲的道徳に縛られているのに対して、デヴィッドスンのほうはピアノの脚にまでカヴァーをかけたという旧弊なヴィクトリアニズムからまったく解放されている。だから『モルダウの黒い流れ』の主人公はイギリスに愛する婚約者がいるにもかかわらず、いささかも反省することなくプラハの街でとても大柄で美しい女性と寝る。
そこで丸谷先生は次のように結論するのである。
〈それではデヴィッドスンにはフェミニズムの精神はないのか?冗談いっちゃいけない。もちろんある。ただ、かつては、寝ないことがフェミニズムであった。そして今は、寝ることがフェミニズムなのである。〉
わたしはモダンなフェミニストであること人後に落ちないと信ずる者だから、プラハの街頭に立ったとき、おのずとこの都市を舞台とするミステリに寄せられた「今は、寝ることがフェミニズムなのである」との断案が思い出され、そしてこれまでの人生を振り返り、フェミニストであることの困難を痛感し、いささか忸怩たる気分になった。けれどさすがにプラハの街だ。そんな気落ちしたわたしを夕食のレストランのプラハハムとピルスナー・ウルケルがやさしく慰めてくれるのだった。