年末年始のミステリーと中欧の旅

年末年始の読書はもっぱらミステリーにあてる。週刊誌や雑誌のベストテンを参考にしながら読みふけって四十年、今回まずとりかかったのは陳浩基『13・67』(天野健太郎文藝春秋)で、さすがに評判どおりの面白さでグイグイ読ませてくれた。2013年から1967年へ、ある名刑事の人生と担当した事件を逆年代にたどった全六篇の連作にはそれぞれ安楽椅子探偵、本格推理、冒険小説といった異なる趣向が凝らされており、くわえてイギリスから中国への返還にともなう香港社会と警察のありようの変化を書き込んで優れた社会派ミステリーともなっている。最終章「借りた時間」を手に汗握って読みながら、まもなく終わるのが惜しまれた。映画化されるというからたのしみだ。
華文ミステリーのこれからの文運隆盛に期待しよう。
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2017年のミステリーの話題で、わたしがトップに挙げるのはフロスト警部とのお別れだ。第一作『クリスマスのフロスト』が創元推理文庫で出たのが1994年、以来本年の『フロスト始末』まで長篇六作品を読み継いできた。1928年生まれの作者R ・D・ウィングフィールドは2007年に亡くなり、『フロスト始末』の邦訳刊行により傑作ミステリーシリーズは幕が下りた。
「おおい、そこのお股の緩めの君、ちょいと来てくれ。訊きたいことがある」「やめてよ、そういう呼び方するの」「おや、とんだ失礼をば。ついつい勝手な連想が働いちまったらしい」。嫌味と皮肉の連発は最終作でも相変わらず快調で、顰蹙などなんのその、ベクトルが上司に向かえばいっそう冴え渡る。奔放で人情味のある人物像はシリーズ全巻を訳された芹澤恵さんの賜物でもある。あらためて感謝しよう。
海外ミステリーのシリーズで全作を読んだのはシャーロック・ホームズとジョージ・スマイリー、これにフロスト警部がくわわった。ホームズとスマイリーは再読している。フロスト警部についても近く二十数年前にさかのぼって『クリスマスのフロスト』から順次読んでみよう。
他方、テレビドラマの古典的ミステリーのシリーズでは「シャーロック・ホームズの冒険」「名探偵ポアロ」「ミス・マープル」(ジョアン・ヒクソン主演)を終え、CS放送のAXNミステリー・チャンネルで再放送している「刑事コロンボ」が五十作を超えた。在職中はテレビドラマとはほとんど無縁で、家族が見ているのをときに覗くくらいだった。いまは時間たっぷりで金がないからテレビドラマに親しむのにうってつけだ。
そういえば夏にはお気に入りの「ダウントン・アビー」が大団円を迎えた。爽快な気分となるハッピーなエンディングだった。全六シーズンは第一次世界大戦をはさむ1912年から25年にかけての物語、「華麗なる貴族の館」の貴族、使用人たちが描かれるなかでイギリスの社会史が浮き彫りになる。
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十二月三十日。シネマヴェーラ渋谷ヒッチコック特集で「バルカン超特急」と「ミュンヘンへの夜行列車」をみた。前者はイギリス時代のヒッチコックの傑作として名高いが、1940年に製作されたキャロル・リード監督の後者は戦争のため日本での公開はなく、さほど知られていない。わたしは数年前にようやくDVDでみたがスクリーンで接したのは今回がはじめてで、2017年の掉尾を飾るにふさわしい揃い踏みとなった。
製作のエドワード・ブラック、脚本のシドニー・ギリアット、ヒロインのマーガレット・ロックウッド、コメディリリーフの ノウントン・ウェイン、ベイジル・ラドフォードは両者共通で、悪くいえば二匹目のどじょう狙いだが、ここでは優れた姉妹篇もしくは変奏曲としておこう。
第二次世界大戦の前夜、チェコスロバキアの科学者ボマーシュ博士が研究する新型兵器が実用の域に達したところで、博士はナチスを避けてイギリスに出国する。ところが博士の娘アンナがナチスに逮捕され強制収容所送りとなる。収容所でアンナはある男と知り合い、男はアンナを手引きして脱走し、イギリス入国を果たす。これがじつはナチスの諜報員で、娘を通じて父の居場所を探った男は、父娘を拉致し、ミュンヘンへの夜行列車に乗せる。それを知ったイギリスの諜報機関ナチス高官を装う情報部員を乗り込ませ、救出を図る。
和田誠さんによると、「第三の男」が公開されたころ映画ファンのあいだでヒッチコックキャロル・リードを比較して「リードがリードするか」といっていた時期があったという。そうしたことを思い起こさせるキャロル・リード監督の「隠れた名作」だ。

年明け早々にドイツ、チェコオーストリアハンガリーを旅行する予定で、旅程にはこの映画の舞台となったミュンヘン、ベルリン、プラハが含まれている。図らずも「ミュンヘンへの夜行列車」は旅のたのしみを大きくしてくれた
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一月五日に羽田を発ち、ミュンヘン空港に着き、そこから国内線でベルリンへ来た。出発前日にジョン・ル・カレ『スパイたちの遺産』(早川書房)を三分の一ほど読み、ミュンヘン行きの夜行列車ならぬ航空機で寝ては起き、起きては読み、そうして機内で睡眠を取りすぎで寝つかれないあいだにホテルで読み終えた。
ル・カレの新作は、ベルリンの壁からの脱出に失敗して殺されたアレック・リーマスとエリザベス・ゴールドの事件に対する元英国諜報部員ピーター・ギラムによる注釈書、すなわち『寒い国から帰ってきたスパイ』のスピンオフ作品である。アレック・リーマスと親しく、かつジョージ・スマイリーの補佐役だったギラムは事件をどのように捉えていたのか、そして隠されていた資料からベルリンの壁の事件が新たによみがえる。
「エリザベス・ゴールドはベルリンの壁で撃ち殺され、恋人のアレック・リーマスも彼女を救おうとして、あるいはたんにいっしょに死のうと決意したのか、どちらにせよ苦労の甲斐なく撃たれた」(『スパイたちの遺産』)この出来事の隠れた部分が明るみになり、事件が解き明かされるスリルは堪えられない。明朝はいちばんでベルリンの壁の跡を訪れる。

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二度目のプラハ。1964年東京オリンピック体操女子個人総合金メダリストはチェコスロバキア(当時)のチャスラフスカ選手だった。当時中学三年生の男子(わたしのこと)はテレビで、「東京五輪の名花」と讃えられた彼女の美しく優雅な演技を見ながら陶然としていて、これを機にプラハはわたしの魅惑の街となった。

1968年プラハソ連軍により占領された。民主化運動「プラハの春」を軍事力で弾圧したのである。このときチャスラフスカは「プラハの春」を支持する態度表明を行い、チェコの体育界から追放された。東京オリンピックのときの中学三年生は高校三年生になっていて彼女の命運に心が痛むとともに、国際政治の現実を多少なりとも意識するようになった。
こんどプラハに来るときは、これまでのように他の都市とセットになったツアーではなく、できればチェコスロバキアに一週間くらいは居られるようにしたい。プラハへの思い入れを考えると他の都市を組み合わせた旅はもうよい。
今回、残念ながら写真は撮れなかったけれど「ユダヤ人問題の最終的解決」の実質的な推進者で、その冷酷さから「金髪の野獣」や「プラハの死刑執行人」の異名をもつナチス高官ラインハルト・ハイドリヒが1942年6月4日に暗殺された場所を車窓から見ることができた。
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プラハからバスでチェスキークルムロフへ来た。町の中央にはヴルタヴァ川が流れ、十三世紀に建てられたゴシック様式ルネサンス様式、バロック様式を融合させた城がそびえ立っている。ずいぶん荒廃した地域だったが、ベルリンの壁の崩壊をきっかけに修復がなされ急速に観光地化が進んだ。
おとぎ話のなかにいるような、心和むばかりの地域のようだが、じつはドイツ系、チェコ系、ロマ(ジプシーの俗称がある)の民族対立が根深い地域と聞いた。1990年代以降せっかく修復された風景が人心にも及ぶように祈りたい。

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シェーンブルン宮殿ベルベデーレ宮殿、また映画「第三の男」のロケ地を訪れたウイーンをあとに今回の旅の最終地ブダペストへ着いた。これまで廻ったドイツ、オーストリアハンガリーチェコクロアチアボスニアなど旧ユーゴスラビアルーマニアブルガリアはいずれもドナウ川の沿岸諸国で、もとから企図したものではないが優先度の高いところを旅するうちにこうなった。振り返ると中欧、東欧にこれほど惹かれるのは思いもよらない展開のような気がする。そのぶんイギリスや北欧は未体験ゾーンのままだ。
ドナウ川の眺め、なかでもブダペストのゲレルトの丘からの眺めはとりわけ素晴らしく、「ドナウの真珠」「ドナウの女王」と呼ばれるだけのことはある。

二度目の当地だからそれは織り込み済みだったのだが、もうひとつ、ここには「世界でいちばん美しいマック」があると聞いて、さっそく行ってみた。伝統的な石造の建物、美しく高い天井、波状のランタン照明を一見してなるほどと納得しました。近くに某世界的コーヒーチェーン店もあったがブダペストに限っては格の違いを見せていた。