ベトナム戦争を読む

十一月。上野駅で見た浅草鷲神社のポスターにことしの一の酉は十一日、二の酉は二十三日とあった。酉の市と聞くと読みたくなるのが樋口一葉たけくらべ』だ。
「此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑わひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかとは思はるる笑ひ声のどよめき」「弦歌の声のさまざまに沸き来るやうな面白さ」。にぎわいは正岡子規の句「吉原ではぐれし人や酉の市」からもうかがわれる。

なお三の酉については若月紫蘭『東京年中行事』(明治四十四年刊)に「年によると、吉原に大火があると云って恐れらるる三の酉がある」とある。
「一葉落ちて天下の秋を知る」の一葉は梧桐の葉で、酉の市に近いころの季語である。一葉をペンネームとした樋口夏子が『たけくらべ』を代表作とするのも何かの因縁のような気がする。
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ベトナム戦争については新聞を読むだけだった。釣りに関心はない。だから開高健という作家は気になる存在でありながら本、映画、食と酒についての数篇のエッセイを読んだだけだったのが、ベトナム旅行でにわかにこの作家への関心が高まった。
一九六四年朝日新聞社の臨時特派員としてベトナム共和国軍に従軍し、最前線で反政府ゲリラの機銃掃射に遭いながらからくも生還した体験は貴重であり、ベトナムとなるとこの人を避けて通れない。

ありがたいことにAmazonKindleの『開高健全集』にベトナム戦争関連のノンフィクション、エッセイ、小説を集めた一冊があり、さっそく『ベトナム戦記』を読んだ。なかでときどき『南ベトナム戦争従軍記』の著者で報道写真家の岡村昭彦が顔を出す。
一九七九年二度目の中国旅行で北京、西安、南京、上海を廻った。メンバーは十数名で岡村氏が団長だった。そのころも未読のままで書架に並んでいた『南ベトナム戦争従軍記』だがここへきてようやく読み頃となった。
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十一月五日に行われたアイルランドVSニュージーランドオールブラックス)のラグビーテストマッチアイルランドが40対29で勝った。スポーツだから勝者がいて敗者がいるのは当たり前ながら一九0五年の初戦からこれまで二十七敗一分だったチームが二十九試合目にして初勝利をおさめたとなると話しは違ってくる。百余年という時間をかけたアイルランドの勝利をテレビ観戦して大いに興奮した。
スタジアムはホームもアウェイも関係ないシカゴのソルジャー・フィールド。今月二日には大リーグのシカゴ・カブスが百八年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たしている。シカゴではわずか数日のうちに歴史的勝利がつづいたわけだ。

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二日連続で「scoop!」と「グッドモーニングショー」を観た。続けての観賞は偶然だったが「映画は時代を映す鏡」として二つの作品を並べるとジャーナリズムの内幕への関心が高まり、そのありかたが問われているようである。
「scoop!」の前半は中年パパラッチ(福山雅治)を通して見たジャーナリズムの底辺、後半はその男といっしょに活動する若い女性社員(二階堂ふみ)の成長する姿が描かれる。とくに前半のジャーナリズムの底辺の描写がよい。大根仁監督の眼に私娼窟の最底辺、玉の井に放った永井荷風の視線が重なる。
「グッドモーニングショー」は東京のテレビ局が舞台だから一見お騒がせの写真週刊誌とは対照的だが、扱う材料は芸能ネタ、セックススキャンダル、政治家の贈収賄など色と欲の万般であり、さほど変わったところはない。せいぜいお茶の間向けのテレビがエッチの度合を低くするくらいで「scoop!」が泥沼から拾ったものを「グッドモーニングショー」が上澄みをとってお茶の間向けに加工する。
おもしろくはあったが難をいえば、両作品とも前半はコメディタッチで快調に飛ばしながら、だんだんとシリアスの度が増して重くなる。「グッドモーニングショー」のボケの女子アナ(長澤まさみ)など後半になると居場所がなくなってしまう。気に竹を接ぐのはやさしいのに対し一気通貫のコメディはむつかしいというのは独断だろうか。
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開高健が「僕とボーヴォワール」というエッセイで、ボ女史を含め「フランス人はいったいヴェトナム人そのものをどう感じているのか」よくわからないと疑問を呈したうえで「感じないで考える人はゴマンといるがほんとに感ずることのできる人はごくわずかである」と述べていた。
プラハの春パリ五月革命の一九六八年、アメリカではベトナム反戦運動が高まり、中国は文化大革命のさなかにあり、日本では東大医学部が無期限ストに入った。翌年大学生となったわたしはベトコンと呼ばれていた南ベトナム民族解放戦線の少年兵士の銃殺、枯葉作戦で焼き払われた農村、戦争に抗議して焼身自殺した火だるまの僧侶などの報道写真に衝撃を受け、ときどきベトナム反戦のデモに参加した。未熟であっても考えたうえでの行動だったが、何を感じていたかと問われると耳に痛い。感じるというより表面をなぞっていただけだったかもしれない。そんな思いからティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』(村上春樹訳)を手にした。
この本には二十二の短篇が収められていて、いずれもフィクションではあるがその基にはベトナムでの多くのアメリカ兵の体験があり、著者はそれらを真摯にまた丁寧に拾っている。
ある語り手(作者と同じ名前のオブライエン)は手榴弾で敵の若者を殺したときのことを回想する。死体を前に立ちすくんでいた。その姿を目にしたおなじ部隊のカイオワが「お前はもっとしゃんとしなくちゃいけない。いつまでも死体なんか眺めてないで、自分にこう尋ねるんだ。もし立場が逆だったらこの死んだ男はどう行動しただろう」と話しかける。。オブライエンを「しゃんと」させるには戦争だから敵兵を殺すのは仕方がないといった論理ではなく、いますこし正当化の支えがいると考えての説得だった。まもなくカイオワは戦死する。
十数年経ってオブライエンは「今でもまだ、私はそれを整理し終えてはいない。あるときにはあれは仕方なかったんだと思う。あるときにはそうは思えない。普通に人生を送っているときには、私はそのことをあれこれ考えたりしないようにしている」と書く。
想像するに、オブライエンの手榴弾で戦死したベトナムの若者の遺族も同様に「整理」はできていない。
二十二の短篇を覆う精神的雰囲気は、戦争だからいやでも戦う、やらなければやられるのだから仕方がないといったもので、自由世界を守るために南ベトナムを支援する米国の論理とか戦争の意味や社会的影響についてはおそらく意識的に避けている。
ベトナムに限らずアメリカが他国に出張って行くときは自由世界を守るという大義が掲げられるが、しばしば支援する相手国の政府がろくなものでなく、その典型が南ベトナムゴ・ジン・ジェム政権で、腐敗、堕落、強権による抑圧はとても自由世界の政府とはいえず、アメリカは意図とは逆に多くの人々を反政府勢力の側に立たせた。
判断ミス、読み違えの原因として情報の不足や外国研究の弱さが考えられるが、それよりも上手くいえないけれど、この国の体質といったものが絡んでいるような気がする。
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近藤紘一『ベトナムから来た妻と娘』(一九七八年)におもしろい日越比較文化論があった。
一九七五年ベトナムから初来日した著者の妻は日本はなんと殺人事件の多い国かと首をかしげた。戦争の国、銃器が氾濫するベトナムの女性にとって日本の新聞の社会面はおどろきだった。
産経新聞ベトナム特派員だった著者によれば、ベトナムでは色恋がらみの刃傷沙汰は頻繁に新聞の社会欄をにぎわしているが直截人命にかかわる事件は稀である。フランスの価値観の影響からか嫉妬のからむ犯罪に対する刑罰は比較的ゆるやかで、これに女の強さがくわわって色恋がらみの事件が多くなるのだとか。
愛のコリーダ」が話題になったときベトナム人妻は、なんでこんなことが話題になるのかと不思議がった。あちらではチン切りは不実な男の制裁としてふつうに用いられていて著者の特派員在任中、すくなくとも十回はベトナム阿部定事件が報道されておかみさんたちを楽しませていたという。いまはどうなのかな。
もうひとつ同書に、ボー・グエン・ザップ率いるベトミン軍がフランス軍に大打撃を与えたあと、無用な殺生を避けるため無砲撃地区を設けるから命の惜しい者は即刻そこへ避難せよとメッセージが伝えられ、何百人かのフランス軍将兵がワラにもすがる思いで避難したのだが一瞬のうちに殺戮されたという話があった。ただし虚実は定かでない。
事実であれば納得できないと著者がベトナム人の知人に言うと、どうしてそんなことにこだわるのか不思議がった。そこで近藤氏が敵に塩を送った戦国武将の美談を紹介したところ、相手は、その塩で元気になった敵に逆襲されたらケンシンはご先祖に申し開きができないではないかと反論した。
ケンシンの美談に示された日本のフェアプレイの精神にたいしそのベトナム人は塩を贈るとみせかけて弾丸をぶちこむのを問題としなかった。長いあいだ異国異民族の侵略と支配を受けてきた国とそうでない国との考え方の違いなのだろうか。そういえば魯迅は「フェアプレイは早すぎる」に水に落ちた犬であっても叩けと書いた。
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トランプ候補の勝利について、あるアメリカのメデイアが、アウトサイダーが実現した大番狂わせと論評していた。わたしのトランプ氏のイメージはエスタブリッシュメント(既存の権力機構)のなかで強大な経済力をもつ変わり者というものだったがアメリカ国民の感覚からするとまさしくアウトサイダーとなるようだ。
開高健のエッセイ「一個の完璧な無駄」を読んでいると『アウトサイダー』の著者コリン・ウィルソンの短評を開高氏が要約引用していて「アウトサイダーとはけだし自身も他者もいっさい信ずべきものを失って、空疎な観念をあたかも信じているかのように捧げて生きていくしかない」人とあった。
トランプ氏をアウトサイダーとするのは反エスタブリッシュメントに政治の部外者という意味が加わる。コリン・ウィルソンヒトラーを例にアウトサイダー即ち空疎な観念を信じているかのように捧げて生きていく人だと言う。「アメリカが第一、再び偉大な国にする」が空疎な観念でありませんように。