「イングリッド・バーグマン 愛に生きた女優」

好きな女優の三人を選ぶのはむつかしいが映画と女優の組み合わせベストスリーとなると「カサブランカ」のイングリッド・バーグマン、「東京物語」の原節子、「バンドワゴン」のシド・チャリシーを挙げる。
イングリッド・バーグマン 愛に生きた女優」は娘で女優のイザベラ・ロッセリーニが二0一五年のバーグマン生誕百周年を記念しスティーグ・ビュークマン監督に製作を依頼して実現したドキュメンタリー作品で、バーグマン(1915-1982)の誕生日そして命日にあたる八月二十九日に渋谷の映画館に足を運んだのはわたしのささやかな記念となった。

「星(スター)」と「人間」との距離を測定することにさほど興味はない。しかし、思い返すとバーグマンとアラン・バージェスとの大著『イングリッド・バーグマン マイ・ストーリー』やローレンス・リーマー『イングリッド・バーグマンー時の過ぎゆくまま』はしっかり読んでいるのだからこの人は別格としておかなければならない。
彼女は父親の影響で16ミリカメラを常時持ち歩いており膨大なプライベートフィルムを残した。くわえて日記、手紙はもとより学校のテストや成績表、パスポートなど資料の保存魔でもあった。今回のドキュメンタリーはこのフィルムと資料、四人の子供たちが語る回想(三度の結婚歴があるバーグマンは、最初の夫ペッテル・アロン・リンドストロームとのあいだに一女、二人目のロベルト・ロッセリーニとのあいだに一男二女をもうけている)、そして共演したリヴ・ウルマンやシガニー・ウィーバーが語るエピソードを主に構成されている。
ハリウッド黄金時代に「聖女」のイメージで人々を魅了したバーグマンは夫と幼い子供を残して渡欧しロベルト・ロッセリーニと恋に落ちて妊娠するという五十年代の一大スキャンダルによりアメリカ映画界から追放された。それまでの「聖女」は「悪女」とされたのである。やがてロッセリーニの不倫により二人の関係は破綻したが、どのようなレッテルが貼られようと彼女の信念は一貫していた。
もちろんそのことは周囲とりわけ子供たちに大きな影響を及ぼした。母に恨みを抱いてもやむをえない環境にあった子供たちだが、四人とも「母が大好きだった。本当にチャーミングな人だった」と語っている。なかの一人は「現実の人生よりも演技をむつかしく考えていたから」と言う。ロッセリーニの作品に衝撃を受けてイタリアへ渡った事情について『マイ・ストーリー』には「ハリウッドに不平不満をいうわけではありません・・・・・・しかしわたしはなにかもっとリアリスティックな仕事がしたかったのです。で、『無防備都市』を見たとき、世界のどこかにハリウッドとは違った映画を作っていることに気がついて、そこを去ったのです」とあり、ここまで「人生より演技をむつかしく考え」ひたむきに仕事に取り組んだ母親に子供たちは不満や失望を言い出しかねた一面もあったかもしれない。
このひたむきさに手を焼いた一人にヒッチコックがいた。「立派なことばかりやろうとして、ひとつうまくいくと、こんどはもっと立派なことをやろうとする」から際限がない。「山羊座の下に」で撮影方式が気に入らないバーグマンが、しょっちゅう「なぜ」「なぜ」と追及し、文句を言うものだから、議論してもはじまらないと思ったヒッチコックは「イングリッド、たかが映画じゃないか」と口にした有名なエピソードがある。(ヒッチコックトリュフォー『映画術』)
バーグマンのプライベートフィルムに晩年の代表作「秋のソナタ」のときの撮影風景が残されていた。ここでのバーグマンとリヴ・ウルマンの演技は鬼気迫るものがあったが撮影時にもバーグマンは思いつめた表情でイングマール・ベルイマン監督に議論を仕掛けていて、リヴ・ウルマンは、このときはベルイマンがバーグマンを別室に呼び、戻って来たとき女優は説得を受け入れていたと思い出を語っていた。「たかが映画じゃないか」に対してスウェーデンの巨匠はどのような言葉をかけたのだろう。
(八月二十九日Bunkamuraル・シネマ)