「行ってまいります」「申し訳ございません」

 新学期がはじまった。わが家は小学校に近く、学校のある日は大通りの信号に交通指導員の方が立ち、横断歩道を渡る小学生に「行ってらっしゃい」と声をかけると子供たちは「行ってきます」と元気な声を返している。

 わたしがジョギングを終えて自宅に帰ってくるのが八時前後で、これから出勤するご近所の方と顔を合わせると「おはようございます」とたがいに挨拶し、ときに「行ってらっしゃい」「行ってきます」といったやりとりをする。

 いずれもバラの木にバラの花が咲くほどになにごとの不思議もない日本の朝の風景と思っていたところ、過日読んだ、小津安二郎作品における言葉遣いの特徴特質を論じた中村明『小津の魔法つかい』(明治書院)に「行ってらっしゃい」には「行ってまいります」と応じるのが本則で、「行ってきます」ではつり合いがとれないとあった。

 国立国語研究所室長や早稲田大学教授を歴任した中村先生によると、「行ってきます」には「行ってきなさい」であって、「行ってらっしゃい」に「行ってきます」では採算が合わないのである。

 小津の代表作『東京物語』には、小学校の先生役の香川京子が「行ってまいります」と声をかけると、父親(笠智衆)は「ああ、行っておいで」、母親(東山千栄子)は「行ってきなしゃあ」と応じるシーンがあり、なるほどしっかり採算が合っていた。

 

 四十代のはじめ、学校から教育委員会へ異動になった際、職員が苦情の電話にたいし「申し訳ございません」と口にしていたのにおどろいた。それまでのわが人生で「申し訳ございません」なんて口にしたこともなければ、他人が言うのを聞いたこともなかった。どうやらお役所というところは「申し訳ございません」なんて言葉を用いなければならないところらしく、学校とはずいぶん違うと実感した。

 生徒が定期試験の採点ミスを申し出たときは「ごめん、ごめん」と謝ったが、それ以上は不要だったし、上司、保護者に特段のおわび、謝罪をしたことはなく、仮にそうしたときでも「すみません」と言っていたはずで「申し訳ございません」は自分の脳裡に浮かびもしなかっただろう。

 そんなわたしも苦情の電話を取り、また議員先生からいろんなお話をおうかがいするようになると「申し訳ございません」を用いるようになったし、七年後に学校に戻ってからは管理運営上の不手際や職員の不祥事など「申し訳ございません」の場面はいろいろと経験した。下手な授業を繰り返すうちはまだしも、まずい学校運営となると「ごめん、ごめん」「すみません」ではすまなくなったのである。

 そうこうするうちに定年を迎えた。それは言葉のうえでは「申し訳ございません」とのわかれであった。時と場面と立場が変わって口にするようになった「申し訳ございません」とは退職とともにご縁が切れたようで、まことにめでたい。

 「行ってまいります」はどうか。そのむかし両親に言ったこともなければ、妻子から言われたこともなく終生ご縁はないような気がしているけれど、人生のラストチャンスが残されていて、ここで「行ってまいります」となるかどうかは予断を許さない。