「新聞記者」余話

映画「新聞記者」は大学新設計画を所管する文部科学省を跳び越して内閣府首相官邸が情報を伏せながら積極的に推進している某医療系大学の新設計画に端を発している。本来は情報を開示して進めるものだが、ここでは官邸主導で極秘に行われている。

公開性を拒み、裏でこそこそするのは、それだけでなんらかの不正をうかがわせるに足る。カントは公開性を欠くならばいかなる正義もありえないと述べていて、これについて齋藤純一『公共性』に「公開性は、不正を認識するための批判的な尺度を提供する。公開性は正義を推定すべき根拠を直接私たちに与えてくれるわけではない(中略)が、公開性の拒絶は、その意思が不正義であることを推定すべき根拠を私たちに与える。公衆の批判的吟味に対する十分な開放を拒むような立法(政治的意思決定)は、何らかの不正の要素を隠していると判断されてしかるべきなのである」ときわめて適切な解説がある。

人間はみずからの意思や思想を伝達し、たがいの理解を図る。言葉はそのためのいちばん重要な道具であり、これをもてあそび、偽るのは人間、社会への裏切りにほかならない。

政治家にあてはめると、かれらは選挙に際しては自身の存念、公約を訴え、異論には議論を闘わせ、議会にあっては質問、答弁を通じて住民の代表としての役目を果たす。言葉の作用はまことに大きい。

仄聞するところによると、なかには立派な職責を果たしているふうを装いながら、公衆の批判的吟味に対する十分な開放を拒み、嘘、欺瞞、強弁で私利私欲を図るのを得意技とする政治家もいるらしいが、こんなワザの発揮しにくいシステムを構築するとともに、先生方には騙しはできてもそれは封印し、騙されずの姿勢を貫いていただきたいものである。

ときに目もコミュニケーションの道具となる。目は口ほどにものを言い、心の窓としての目を見つめあえば意思疎通ができるばあいはあるけれど、政治の世界で、言わなくてもわかるはずはまっとうな姿ではない。あれは仲のよいご夫婦のことであっても、政治的関係においては忖度を生み、不正につながりやすいとして過言ではない。そして政界から発した忖度なんてむつかしい言葉が流行語となる日本の社会である。

鳩山由紀夫元首相は「国民が聞く耳を持たなくなった」と述べて首相の職を引いた。とんでもない政治家がいたもので、自国はもとより米国へ出かけて言葉をもてあそび、軽薄な発言を繰り返していれば、国民もオバマ大統領も聞く耳をもたなくなるのは当然であろう。でもこの人のばあいは政治と言葉についての不見識の要素が大で、政治のシステムにまで影響を及ぼすことはなかった。

しかし安倍内閣における政治と言葉の問題は次元がちがう。

森友学園加計学園など不正疑惑の報道が出ると、丹念な説明に努めると口にはするけれど、説明責任は看板倒れである。キャリア官僚が勝手に(ということになっている)国会答弁を改竄してもさしたる処分はない。野党やジャーナリズムが情報公開制度にもとづいて、しかるべき文書を請求しても、存在しないと虚偽の回答をして、あとで文書の存在が明らかになったことも何回かに及ぶ。

これらは政管一体となった情報コントロールにほかならない。嘘の言葉が政治システムに組み込まれているのである。この現状が続くと社会関係はそこなわれ、世の中の絆はばらばらとなるのはあきらかで、与党だ、野党だという前に、それらが拠って立つ基盤が蝕まれている。

東京新聞の望月衣塑子記者が映画「新聞記者」の構想を練ったのはこうした現状に一石を投じたい思いからだっただろう。まっとうで、切実な思いに賛意を表したい。