師弟という関係〜映画「セッション」によせて

学校の四月は先生と生徒との出会いの季節である。小中高等学校いずれも新入生のばあい入学した先でクラス分けがあり配属が決まるとそこに見知らぬ学級担任や教科担当がいる。出会いはあくまで偶然であり、なんとしてもこの先生に師事したいと入学する事例はあってもきわめて稀である。
平成二十五年度の小学校を例にとれば国公私立小学校の生徒数6,676,920人、これに対し本務教員数417,553人で、学校教育体系はこの膨大な数を上手く組み合わせて、児童、保護者から見て当たりはずれのないようしなければならないのだが完璧は期しがたく、そこに生徒、保護者は教師を選べないという嘆きが生まれる。
人を教え、人に教えられるという関係には先生と生徒との偶然の出会いとは別に教える者と教えられる者とが選びあい、納得して関係を結ぶ師匠と弟子というあり方もあり、これこそ教育のあるべき姿だと考えておられる方も多くいるだろう。しかしながら教育、とりわけ初等中等教育はおなじ年齢の多数がほぼおなじ内容を学習して、おなじ修業年限で卒業することを目途として構築されたシステムであり、しばしば大衆社会における画一と総花という批判を受けるのだが、そのことは翻ってみれば万人向けの証でもある。
柳家小満ん『べけんや わが師、桂文楽』によれば、師の桂文楽はおいしいものがあるとちょっとだけ弟子にも味見をさせ、山葵と下地をつけた一切れのお刺身を弟子の手のひらにのせて「味わってお食べよ」と一言添えたという。「うまいかい」「はい」「うまいと思ったら、それが芸ですよ」といったやりとりも見えている。
この体験が忘れがたかった著者はほかの師匠の食卓の光景を弟子たちに問い合わせて書きとめていて、三遊亭金馬邸では食事はお膳いっぱいに品数を並べ、弟子たちの前で「うまいなあ」「早く偉くおなりよ」といって見せびらかしたというし桂三木助は弟子が四人いるところへ三切れの刺身を残して仲良く食べなよと言ったとか。
いずれも教師と生徒との関係では考えられない光景だ。師弟関係こそ教育の理想といっても皆がみなきびしい経験をする必要もなければ耐えられるものでもない。修行は好きでなくてはできないし、そのまえに入門許可を必要とするから万人向けではない。ことは落語に限らず学問、芸術、芸能、スポーツ、囲碁、将棋など何によらずプロフェッショナルとして一芸に秀でるためには師弟関係を取り結ぶことが多く、効果的でもある。いっぽうで師弟関係は通常の先生と教え子が前提とする距離よりもずっと密接で、そのぶんきびしさも増すし、ときに愛憎ただならぬ事態に陥ったりもする。

デイミアン・チャゼル監督「セッション」はそうした師弟の関係を描いた熱きドラマで、ジャズドラムを学ぼうと名門音楽学校に入った青年ニーマン(マイルズ・テラー)と、彼にすさまじいスパルタ的指導を行うフレッチャー(J・K・シモンズ)の攻防戦にテンションは高まりっぱなしだった。
フレッチャーは完璧な演奏を引き出すためには罵声を浴びせることはもとより暴力をも辞さない鬼教師だ。彼が主宰する学内のジャズオーケストラのドラム奏者に選ばれたニーマンは誇りと喜びを懐きながらその指導に必死に食らい付いていく。ところがこの人物ならば育ててみたいという意欲と、この人の指導を受けて大成したいという意志とはまもなく捩れてゆき、双方のぶつかり合いはサイコやホラーサスペンスを思わせる怪異と狂気を呼び込み、やがて復讐戦の様相を帯びる。
洋の東西を問わず師弟という関係には神憑りや狂気と隣り合わせの危険があり、そこのところを上手く反映させたフレッチャーの極端な人物造形が面白さを増幅している。
監督はインタビューで「音楽の喜びと楽しさ、そして優れたミュージシャンが作られていく過程を描いた映画はたくさん観てきました。でも、音楽において僕が経験したような“恐怖”を描いた映画は多くありません。それは、舞台と指揮者、バンド仲間への恐怖です。間違ってしまうことへの恐怖。そして、決して到達できないゴールに到達しようとする、絶え間ない苦痛です」と、映画は自身の体験を基にしたと語っている。その体験がどれほど反映されているかはわからないが師弟関係をこんなふうにエンターティメント化した才能に拍手を送りたい。
ドラムを演奏するプレイヤーの表情、腕と手、ドラムスセットのパーツ、スティックといったカット割りされた映像の編集が流麗、巧みで雰囲気を高めている。
(四月二十日TOHOシネマズみゆき座)