報道パパラッチの物語

BBC製作のテレビドラマ「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」(映画「裏切りのサーカス」の元版)とその続篇「スマイリーズピープル」がセットになったDVDをゲットした。全篇視聴するには11時間余りかかる。日本語字幕も吹替えもなく、英語字幕を期待したが、それもなし。わたしの語学力では鑑賞はホネどころか無理なのだが、そうとわかっていてもエスピオナージュのファンとして見逃すことはできない。頼りとするのは頭にしっかりはいっているジョン・ル・カレの原作のストーリー展開で、セリフは分からずともここからなんとか理解をめざそう。
テレビ版ジョージ・スマイリーにはアレック・ギネスが扮していて「ティンカー・テイラー」は一九七九年に放送されている。先日観たアレック・ギネス主演のコミカルな犯罪ドラマの傑作「ラベンダー・ヒル・モブ」が呼び水となったらしく「戦場にかける橋」と「マダムと泥棒」が放映されて、ちょいとしたギネスのマイブームだ。
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戦後来日したマッカーサー吉田茂に、自分は日露戦争の頃にも日本に来て多くの将軍に会い、それぞれに風格があり、非常に感じがよかった。ところが、今度日本に来ておおぜいの将軍たちに会ってみると前とはずいぶん違った印象を受ける、同じ民族だとは思えないくらい違っていると述べたという。
吉田茂から上の話を聞いた和辻哲郎は、日露戦争世代の代表として東郷平八郎乃木希典、太平洋戦争世代の代表として東条英機荒木貞夫を念頭に置いて両者を比較した結果、東郷、乃木は少年時代、論語孟子といった中国の古典を学び、人間形成が成ったあとに西洋の軍事学を学んだ、それに対し東条や荒木を代表とする世代の将軍たちは初めから教育勅語軍人勅諭によって育てられたのであり、論語孟子素読はやらなかったのだろうと結論付けた。和辻は簡単で要領を得た要項的なものより、迂遠に見える古典の方が有効と考えたのである。
道徳教育は教育勅語の復活よりも論語孟子素読からということか。

のちに吉田茂が外遊してイギリスでの晩餐会の席上、チャーチル首相は「吉田首相は、本国では却却(なかなか)Tough(強情)であるということで、名が通っておられる」と挨拶した。(『回想十年』)
なるほどと首肯し納得するタフの用い方で、ならば吉田のタフを形づくった要素は何だったのか。すくなくとも教育勅語軍人勅諭ではなさそうだ。
いっぽう吉田茂チャーチルについて「衆愚にこびず、俗論に迷わされず、毅然たる自信ある態度をもって国民に臨むこの態度は、民主政治家たるもの大いに学ぶべきであると思った」と評している。「衆愚にこびず」というところに良くも悪くもチャーチルと吉田のタフが表れている。
もうひとつ吉田茂が訪米する前に愛知揆一通産相をトップとする先遣隊がワシントンを訪れて、冒頭声明で「米国の為政者が(中略)自己を正しいと信ずるその自信ゆえに、しばしば相手方の微妙な気持を理解しないで、信念の押しつけをしているという印象を相手に与えることはないか」と述べた。今に変わらぬ米国の体質だが、この直言にも吉田のタフを感じる。
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ヒューマントラストシネマ渋谷で「ナイトクローラー」を観た。脚本家として『ボーン・レガシー』などを手掛けたダン・ギルロイの初監督作品。
前夜のラグビーワールドカップ、日本対スコットランド戦のテレビ観戦で寝不足のまま足を運んだが、さいわいはじまるとぐいぐいとのめり込んで睡魔が顔を出す隙はなかった。よい意味で?覚醒剤のごとき映画か。

ロサンゼルス。窃盗を働き仕事にあぶれたルー(ジェイク・ギレンホールが怪演)は、たまたま自動車事故の現場を撮影して衝撃映像をテレビ局に売るカメラマン(報道目的のパパラッチ)を見て自身「起業」してこの世界に参入する。
金に困った若者リックをアシスタントとしてこき使い、警察無線を傍受して、ときにパトカーより早く事件現場、事故現場に駆けつける。こうして撮影した犯罪現場の過激な動画はニュース番組のディレクターであるニナ(レネ・ルッソ)の編集方針もあり、高値で買い取られるようになる。
ルーは儲かった金を機材、車に投資し、さらに映像効果や過激度を高めたいテレビ局のニーズに応えるために遺体を動かすなどして犯罪現場に手を加えることも厭わなくなる。犯罪報道ではなく犯罪演出報道へと突き進むサイコパスの起業家の誕生だ。
サスペンスとブラックユーモアとを絶妙にブレンドした報道パパラッチの物語にロサンゼルスの夜景がよく似合っていた。
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集団的自衛権の行使や他国軍への後方支援を可能とする安全保障関連法案が衆議院に続き参議院でも可決された。より安心できる切れ目のない防衛を大義名分としているが、それよりもアメリカの構想する世界秩序のためにしっかりと軍事面でも一翼を担う方向に舵を切ったと考えたほうがよいのではないか。
戦争の話題となると舞い上がる輩が登場するのは毎度のことで礒崎陽輔首相補佐官の「安保法制と法的安定性は関係ない」という趣旨の発言や武藤貴也議員のツイッターでの「戦争に行きたくないのは、自分中心で極端に利己的」といった批判には「戦前」を感じた。
本来ならば国民のしかるべき覚悟を必要とすることがらとして憲法改正という国民の意思を問うプロセスを経るべき問題だが、現状では困難だから一内閣の憲法解釈の変更で押し通したのだろう。衆議院の絶対多数を武器に強硬な手段で突破した印象は否めない。
一九三八年夏に起きた満洲国東南端、張鼓峰における日本軍とソ連軍との戦闘(張鼓峰事件)に際し高木惣吉海軍大佐は西園寺公望の秘書である原田熊雄に「最も遺憾とするのは外務欧亜局が腰抜け揃ひの癖に強硬論にカブれ・・・積極的外交政策に渋り勝ちなる」「争いを好みて一旦難局に陥らば唯唖然として為す所を知らざる輩の暴論は実に国家を禍する」と書いた手紙を送り、軍事面の暴走に伴う危うさを指摘した。(原田熊雄述『西園寺公と政局』)
強硬論にかぶれて外交努力をおろそかにし、足をすくわれることのないように願いたい。
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 歌舞伎座昼の部へ行く。二0一三年に新装なってからは初の観劇で、演物は「双蝶々曲輪日記―新清水浮無瀬の場」「紅葉狩」「競伊勢物語」(だてくらべいせものがたり)。「伊勢」の紀有常は八一五年生まれ(没年は八七七年)でプログラムには生誕一二00年と前書きがある。
紀有常を演じたのは中村吉右衛門、絹売豆四郎、在原業平市川染五郎、娘信夫、井筒姫に尾上菊之助がそれぞれ扮している。歌舞伎座での上演は半世紀ぶりとのことで、それだけリクエストもなかったのだろうが、今回の公演で後世に引き継がれると考えるとまことに得難い機会であった。
休憩時間にお弁当を食べながら十月公演のチラシを見たところ、昼の部に二世尾上松緑二十七回忌追善狂言として「人情噺文七元結」が組まれていて、落語で親しんでいる演目を見逃すことはできないと年金老人は財布を気にしながら帰りがけに一階のチケット売り場で初日のチケットを購入した。
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「美人が寝ている男の首をしめるーここがエロティックですよ。ほら、例の妖婦、阿部お定の事件」「切っちゃった人でしょう」
丸谷才一「幽霊の話から……」にある男女の会話。
さきごろ妻の勤務先の弁護士の局部を夫が園芸バサミで切断したという事件があった。「切っちゃった」夫は元プロボクサーの法曹界を目指す慶応の院生で、妻が弁護士に暴行を受けたと聞いて犯行に及んだそうだ。
阿部定と石田吉藏の事件は性愛の神話としてよいが、三角関係のもつれはこの域からは遠い。
「首提灯」という落語で、侍の試し斬りで胴斬りに遭った男、胴から上がお湯屋の番台へ収まり、下の方は蒟蒻屋に雇われて桶の中で蒟蒻の製造にいそしんだ。こちらはよそ見をしないのでたいへん能率が上がったとか。

増村保造監督「赤い天使」で、戦闘中両腕を失った川津祐介が入院中の野戦病院で看護婦の若尾文子に、手を失ったぶん、むやみに足が敏感になって、ぼくの足をきみの太ももで挟んでほしいと頼むと、若尾はそれに応じたのだった。
切っちゃったり、無くなったりしたあとも硬軟とりまぜていろいろな物語が繰り広げられている。
「赤い天使」で思い出したが、戦時中の女の物語として若尾文子にはもうひとつおなじ増村保造監督とコンビを組んだ「清作の妻」がある。若尾さん自身『若尾文子 "宿命の女"なればこそ』のインタビューでこの作品を高く評価している。夫を兵士に取られたくないと、とんでもない行動に及ぶ女の情念、「エゴ」に発する反戦意識、戦前の村落共同体への反撥が一体となった見事なドラマだ。
「清作の妻」とおなじ時代に戦地へ赴いた従軍看護婦の物語「赤い天使」の二作品は太平洋戦争を描いた女性映画として双璧をなしている。
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近くベルギーのブリュージュに行くので予習を兼ねてローデンバック『死都ブリュージュ』(窪田般彌訳)を再読した。
はじめて読んだのは永井荷風にはまる前だったように覚えていたが岩波文庫の奥付は一九八八年だからやはり荷風先生の影響で手にしたようだ。いずれにせよ本書でブルージュはわがあこがれの都市となった。
ここは「信仰深い女」の面影を漂わせる敬虔な街、洗練された芸術に加えて、宗教的建造物が都市の美観と風格に拍車をかける。十三世紀から十五世紀にかけては繁栄する商工業都市の経済力を背景に中央広場の鐘楼兼物見塔、ノートルダム教会、サン・ソブール聖塔等目ぼしい教会や聖堂が建てられ栄華を誇ったが、やがて複雑な国際情勢の犠牲となりアントワープにその地位を譲った。(岩波文庫訳者解説)
『ローデンバック集成』(ちくま文庫)所収「ブリュージュ」というエッセイによると「ブリュージュは、実際、往時のヨーロッパにおける女王、伝説に名高き宮廷の豪奢を誇」り「ヴェネツィアが自分よりも幸福な姉妹として敬意を表しながらも水平線の彼方から嫉妬んでいた女王だった」(高橋洋一訳)。それに「北方のヴェネツィア」の異称はヴェネツィア大好きなわたしの心をときめかせる。
「しばしばおとずれる濃霧、北国のどんよりした光、河岸の花崗石、たえまない雨、鐘の音のうつろいなどが、互いにまざりあって大気の色に作用したかのよう」なブリュージュのたたずまい。ローデンバックの眼鏡でこの都市を見るのに終始するのは警戒しておかなくてはいけないと思いながらも避けられそうもない。
永井荷風ヴェネツィアをこよなく愛したアンリ・ド・レニエに心酔した。レニエにとってのヴェネツィアがローデンバックのブリュージュで、二人の詩人について荷風は「諦めの悲しく静かなるを歌ひたる点」で共通すると述べている。
『死都ブリュージュ』はこの都市を有名にして観光産業に多大の貢献をしたが、近代化、工業化した「新生ブリュージュ」の住民には「死都」などとんでもないことで著者は憤激の対象になっていたという。いまはどうなっているのだろう。