中正記念堂(2015初夏台湾 其ノ八)


日中戦争の交戦国は中華民国だったから敗戦処理もこの政府となされるべきものだった。ところが一九五一年九月四日サンフランシスコのオペラハウスで日本と連合国側との戦争状態を終結させるための講和会議すなわちサンフランシスコ講和会議が開かれたときは国民政府が支配するのは台湾という狭い範囲に限られ、中国本土は中国共産党による政権が支配するところとなっていた。
ときの吉田茂首相の『回想十年』には国民政権か共産政権かの選択の問題は「急いでこれに片をつけることを避けて、成るべく先に延ばして情勢の変化を見極めたいと思った」、しかるに米国は日本の態度表明を強く要求しており「国民政府を相手として平和条約を結ぶよりほかに、当時進みようがなかった」とある。
大学生だったわたしに吉田茂は保守反動の親玉としか映っておらず、こうした苦衷を理解したのはずっとずっとのちのことだった。