「雪の轍」

チラシに「チェーホフ×シェイクスピア×シューベルト/人間の心を描く深遠なる物語」とあった。ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督はトルコ映画界の巨匠と紹介されていて、これが日本での劇場初公開作品だそうだ。
チェーホフシェイクスピアシューベルトいずれもわたしにはこれまでほとんどご縁はなく、監督、スタッフ、キャストと目を遣ってもなじみのない名前がならぶ。どうやらゲイジュツ映画ふうで、しかも三時間を超えるというのだから二の足を踏んだが、舞台が曾遊の地で奇岩の景観が忘れられないカッパドキアとなるとそうは言っていられず、一念発起して劇場に足を運んだ。
結果は人間関係のありようとその緊張がグイグイと伝わって来るドラマ、そして観光からはうかがわれないカッパドキアの風景や当地のさまざまな表情に目を見張った三時間十六分だった。

アイドゥンは元舞台俳優で、いまはカッパドキア洞窟ホテルのオーナーとして裕福に暮らしながらトルコの演劇史にかんする大著の執筆と資料集めを進めている。仕事ぶりはゆったりしたものでほかにすることがないからといった様子にも見える。あるいは旦那芸ほどのものなのかもしれない。アイドゥンはインテリを意味するトルコ語だそうで、寅さんの言う「おっ、てめぇさしずめインテリだな!」を代表しているのだろう。
この初老のインテリと同居するのは若い妻と出戻りの妹。その住まいが観光客もいなくなる雪の季節のおとずれとともに憂鬱や退屈のしのびよる閉塞の場所となる。そして兄と妹、夫と妻のいつ果てるや知れぬ言葉のやりとりがはじまる。
男と女、老いと若さ、富める者と貧しい者、西洋的な価値観とイスラム世界、理性と感情、「いたわり」と「偽装されたいたわり」、感情と勘定などの重層する会話だが、そこに相互の理解を図る意思はなく、皮肉と嫌味と感情の吐露がときに火花を散らす。
アイドゥンは家作も持っていて、なかに家賃を滞納している一家があり、債権者と債務者の関係は蔑視と恨みの要素が増しつつある。
家の内と外で交わされる譏りの応酬そして辛辣な舌戦とさげすみの視線は小津作品で交わされる会話の対極と映る。となると行き着く先は言葉と感情の失禁状態になっておかしくないのに何かがそこへ陥るのを阻止している。劇中曲として流れるシューベルトピアノソナタ第二十番はそれを象徴しているように思われるが、とりあえずは言葉と感情のなかに潜む悲哀を指摘しておこう。
いずれの登場人物も相手の欺瞞、詐術、糊塗は的確に見抜いているけれど、自分のなかにあるそれらについては自己欺瞞と知りつつ手なずけている。だからここには寛容も赦しもないのだが、雪に覆われたカッパドキアでも人々の往来に遮断がないように、どれほど殺伐としたなかにあっても互いに会話をしているうちに心が右往左往しているのがわずかな救いとなっていて、最後の最後で夫と妻とのあいだが異なった様相を帯びる。
スクリーンに映し出されているのは銀世界のカッパドキアだが、やがて雪解けから奇岩の風景が現れるように季節はめぐる。この夫婦にも雪解けの気配が見えてくる。それが季節の巡回に似たものか、あるいは魂の雪解けなのかの判断は観る者に任される。
(六月二十九日角川シネマズ有楽町)