小津とチェーホフ

海外に出たときは気分を変えてこれまでご縁のなかった人の著作に接してみようと、十月にトルコを旅しているあいだチェーホフを読んだ。名前だけ知る人だが、開高健がえらく推奨していて気にはなっていた。
まずは中原俊監督「櫻の園」からの連想で『桜の園・プロポーズ・熊』次いで『ワーニャ伯父さん・三人姉妹』(ともに浦雅春訳、光文社古典新訳文庫)を読んでみたが『桜の園』から太宰治『斜陽』を連想し、短篇のユーモアに微苦笑したりはしたものの諸家が礼讃し称揚するほどにはいまひとつピンとこなかった。
さてこれからさきチェーホフとのおつきあいをどうするか?
ゲイジュツに弱いわたしにチェーホフはご縁のない人だったと断念する、いますこしねばって再読また未読の作品にチャレンジする、あるいは読書の指針として作家論、作品論にあたるという三択である。
さあどうしようと考えながら『ワーニャ伯父さん・三人姉妹』の訳者あとがきを読んでいるとそこに小津安二郎チェーホフに関して思いもよらない指摘があった。すなわち、「秋刀魚の味」で佐田啓二がふてくされて寝転がって煙草をふかしている背後の本棚にそのころ出版された中央公論社版『チェーホフ全集』が収まっている、また『秋日和』では、嫁いでいく娘(司葉子)と母親(原節子)が旅の宿で、そっと『チェーホフ全集』の一冊を開いている。(文字では確認できないが下の写真の一連の赤い背表紙の本がチェーホフ全集)

小津と西洋文学との関係については「麦秋」で『チボー家の人々』が話題になっていたのを知るくらいなので小津とチェーホフとの接点は寝耳に水の話題だった。
さらに浦氏のあとがきには、「東京物語」で妻をなくした笠智衆がぽつりと語る「ああ、きれいな夜明けじゃった」「きょうも暑うなるぞ……」といったせりふなど、まったくチェーホフ的で、言いしれぬ不安をこころにかかえた人間は天候のことや、日常の瑣末なことがらしか口にできない、小津映画にはチェーホフ的な台詞が多いとある。
じつはチェーホフ断念のほうへ傾きかけていたけれど、こうなると小津ファンを自認する者としてその選択はできない。するとおかしなもので「年をとる、肥る、焼きがまわる。昼、そしてよる、ーあっという間に一昼夜、人生はただもやもやと、なんの感銘もなく過ぎていく」といった「イオーヌイチ」(神西清訳)の一節が小津に通じる水流とみえてくる。
おなじく「イオーヌイチ」で、自分が書いた小説を朗読している地方の名望家の夫人についてスアールツェフ医師が「無能だというのは、小説の書けない人のことではない、書き手もそのことが隠せない人のことなのだ」と口にする。即座にわたしは自分のブログをいわれている気がしてドキッとした。
いっぽう小津は、高橋貞二が外車で撮影所入りするのをみて、「松竹はいつから八百屋になったんだい。ダイコンが車で来たじゃないか」と言ったとか。
こころに食い入る寸鉄とユーモアを具えた点でも小津とチェーホフは通じているようだ。