「嘆きの天使」の思い出

いままでに観た映画でいちばん怖い思いをしたのは高校生のときテレビで観た「嘆きの天使」である。一九三0年に製作されたこのドイツ映画はマレーネ・ディートリッヒの代表作であり、彼女とジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督がはじめてコンビを組んだ映画史上の記念碑的作品でもある。
謹厳実直な英語教師ラートは生徒たちが「嘆きの天使」と呼ばれる歌姫のエロ写真を持っているのを見て、彼女に学生たちを近づけないよう申し入れに行ったところ、その魅力にとりつかれてしまう。ミイラ取りがミイラになってラートは彼女が出演するキャバレーに通いつめた末にとうとう学校をクビになる。
やがてラートはローラと結婚するが、旅芸人の一座での零落した生活はまぬがれず、生徒たちをいましめたあのエロ写真を自身が売ってまわるはめに陥る。
勤めていた学校のある町での巡業で、彼は道化役としてかつての生徒たちの前でみじめな姿を舞台にさらした。芸とてなく生卵をぶつけられて笑いものにされるだけのクラウン。しかもその眼には舞台の袖で若い座員とキスしているローラの姿があった。翌日、学校で道化姿のラートの死体が発見される。

堕ちゆく抒情を知らない年齢ではなかったが、それにしても残酷でショッキングなドラマだった。このような愛の行く末、男と女の関係の末路もあるんだと頭ではわかっていても心の動揺はつづいた。
嘆きの天使」というタイトルに惹かれてなんとなくテレビの前に坐り、終わったときにはいままでにないあとあじの悪さと衝撃を覚えていた。
「黒い網のタイツに覆われたすばらしい脚線美で、ドイツ的デカダンスの現実的な魅力がムンムン」(双葉十三郎)、「スタンバーグの映画の美しさは、光と影の美学(中略)モノクロ映画ならではの光と影がたわむれる映像に魅惑」(山田宏一)といった讃辞は承知しているけれど、いまもってもう一度観てみようという気にはなれない。
下世話にいえば女と女に溺れる怖さをはじめて知った映画だった。現実には高校生活のまっただなか異性への思いは強まってもしぼんだりすることはなく、しょせんはブラウン管のなかの出来事にすぎない。それでもこの映画は青春や若き日といった言葉が織りなす心性に、人生の苦みという強烈な染みをもたらしたのはたしかである。
リチャード・ブルックス監督「プロフェッショナル」で妻を誘拐され多額の身代金を要求された夫は妻を奪い返すため十万ドルをかけて射撃の名手、ダイナマイトの専門家、馬のエキスパート、弓と追跡の名人という四人のプロフェッショナルを雇う。
「妻に十万ドルも?」とおどろく女たらしのダイナマイトの専門家(リー・マーヴィン)に射撃の名手(バート・ランカスター)が「少年を男にする女もいれば、男を少年にする女もいる」と答える。「少年」と「男」と「女」の絵柄は含蓄や苦味や屈託感を帯びて複雑である。
嘆きの天使」のローラ、マレーネ・ディートリッヒがさらけ出した「少年」の知らない男女の愛の末路の強烈さを思えば、映画体験の上では彼女こそ少年のわたしを男にした女だった。