ときには時事問題にも目を向けて

ジャズの「ホワッツ・ニュー」、シャンソンの「再会」、そして映画の「ジンジャーとフレッド」、いずれも別れた男女の時を経ての出会いに哀愁感が漂う名品だ。
フェリーニ作品中のマイ・ベスト「ジンジャーとフレッド」は1985年の映画だから昨2015年は三十周年にあたっていた。

ピッポマルチェロ・マストロヤンニ)とアメリア(ジュリエッタ・マシーナ)は1950年代にフレッド・アステアジンジャー・ロジャースのイミテーションとしてコンビを組んだ寄席芸人で、「あの人は今」企画のテレビ番組に呼ばれて久々スポットライトを浴びることとなる。三十年ぶりに再会した二人の老いを背負いながらのダンスシーンが素晴らしく、絶品。
もともと恋人同士だったがピッポの浮気が原因で別れた。そしていまアメリアは家庭的にも経済的にも恵まれ、ピッポのほうは離婚して独身、生活も苦しい。二人はこれまでの軌跡を語り合うが、それとは別に共通の知人からアメリアは彼女が去ったショックでピッポが身体をこわし入院していた事実を知る。
これまで観た映画で最高に素敵な六十代の女性はこの映画のアメリア=ジュリエッタ・マシーナだ!その彼女を前にして、テレビ局で着替えをはじめたピッポが下着姿になるのを恥ずかしがる。「変だな、何度も寝た仲なのに」。
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塩野七生×アントニオ・シモーネ『ローマで語る』(集英社文庫)を読んだ。親子が楽しく伸びやかに語った映画体験記、映画論で、これまで知らなかった映画や本を教えてもらってAmazonTSUTAYAで検索するのが一興だ。
塩野さんは黒澤明と親しく「黒澤さんは、並の人以上に食べた、とくに肉を。もちろん酒も飲み、堂々とタバコを吸うという具合で、節制という言葉に彼ほど無縁な人もいませんでした」と人物論、作品論にも通ずる回想を語っている。娘の和子さんによると父黒澤明は助監督時代は饅頭専門、監督時代はホワイトホース一辺倒の飲助だった。
塩野さんは主としてローマ帝国史を扱ってきた経験から「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」を論じ「歴史には、完全な中立な立場なんてないんですよ。(中略)だから、それぞれが理由にしていることを、その両方から別々に書くしかない」と語る。
よくわかるけれど、完全な中立はない点を踏まえながら、それでもなおと立場を鮮明にするところに言論の活性化はあるように思う。斎藤美奈子『ニッポン沈没』(筑摩書房)を併読していたので一層その感を強くしたのかもしれない。
『ニッポン沈没』は2010年8月から2015年6月までの「話題の本を読みながら、同時代に目を凝らした記録」「書評と時評の間を行く」コラムの集成。本を通して見た「クローズアップ現代」といった趣きがあり、むかし鮎川信夫が「週刊文春」に連載していた「時代を読む」を思い出した。
斎藤さんは立ち位置を明示していて、旗幟鮮明は右顧左眄の必要がないから、賛否は別にして言葉は明確で、論理は筋が通っている。偉いさんをからかって笑いを取る語り口も嬉しい。それにしても仕事とはいえ偉いな、石原慎太郎『新・堕落論』とか戸塚宏田母神俊雄『それでも、体罰は必要だ』なんて本に向かっていくのだから。
本書の巻末には取り上げた本の一覧があり、眺めるとわたしが読んだ本はかろうじて藤沢周平たそがれ清兵衛』があるのみ。なんでもドジョウ総理野田佳彦が愛読していたそうで、時局に関する本とこれほど無縁なのもみょうに不安だ・・・・・・
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・・・・・・と思っていたところ、図書館へリクエストして順番待ちになっていた須田桃子『捏造の科学者 STAP細胞事件』(文藝春秋)を手にした。専門的な記述の理解は無理だったが、事件の大まかな見取図は得られたように思う。
池田清彦同調圧力にだまされない 変わり者が社会を変える。』に「この事件のミソは、世界的な研究者である笹井芳樹小保方晴子に騙されたことにある。笹井さんだけでなく、クローンマウスの作成でこの研究に協力した若山輝彦も騙された口だ。騙された人にも多少の責任はあるが、小保方さんと同じくらいのバッシングを受けるのはちょっと問題だと思う」とある。高校野球で一部員の飲酒を部員全員に連帯責任を負わせるのは酷という論理である。
しかしこれは処分の問題であって「世界的な研究者である笹井芳樹」がなぜ小保方晴子に騙されたのかの解明ではない。わたしにはそこのところがなお謎だったが本書にはこのかんの事情が詳述されていて、要は、小保方氏がES細胞STAP細胞として笹井氏や若山氏に提示し、両氏は素直に信じてしまったのである。とんでもない基礎工事の上に大高層ビルディングを建てたようなもので、崩壊は凄まじいものだった。もちろん騙されたといっても検証作業のないまま盲信した笹井、若山両氏が免責されるはずもない。
本書を通して見た小保方像は早大理研等を踏台に最後は一流の科学誌への論文掲載までした稀代の「捏造の科学者」である。それにしても、いずれバレてしまうと分かっていただろうにどうして捏造に及んだのかはなお謎だ。
この謎をTwitterでつぶやいたところある方から以下のお返事を頂戴した。
「それは自己愛性人格障害者の特徴を調べれば明確です。 NPD患者は先の事を考えるだけの賢さがありません。3-5歳児の子供は『いずれバレるのは分かっている』ような言い訳を良くしますよね。大人でも、脳の一部に発達障害があれば、周囲が見て『いずれバレるのは分かっている』ような言い訳をする人がいます。しかし本人はその時々しか考えておらず、『いずれバレる』なんて先まで考える事ができません。本人は真剣で、嘘や言い訳なんかしている、という意識はありません。まあ、こういう倫理部分は普通は親が子に教えますが、親子関係に問題が有るとその事を学ばない大人が出来ます。『見かけが大人だから、大人が考える常識的言動をするだろう』と仮定するのが間違い。『見かけが大人でも、幼児時代から倫理観・社会観・一部の言動が発達していない大人がいる』ということを、認識しないといけません」。
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大学生になったのは1969年4月、東大安田講堂の余燼まだくすぶる頃だった。東京育ちの友人と話すうちに、これまであまり念頭になかったいくつかのアイテムを意識するようになった。歌舞伎、落語、ジャズ、クラシック音楽、オペラなどで、かろうじて落語だけはテレビ、ラジオで視聴したことがあったが、それにしても古今亭志ん生の高座を寄席で体験しているのだから、敵わないなと思ったものだった。
大学生として迎えたはじめての冬、東京の女性はコートの着方が上手で素敵だなと感じた。あまりコートを着る必要のない土地で育ったものだから新鮮さはひとしおだった。いまは東京と地方でコートの差なんてないけれど。
前項のアイテムのうち落語とジャズには親しむようになった、そしていつまでも疎遠なのがオペラだった。

クラシック音楽ではモーツァルトをよく聴くので、そこから何度かテレビでオペラに挑戦してみようとしたがダメだった。長いうえに歌唱にもなじめない。ところが先日はじめてNHKBSで、通しで(といっても全一幕一時間ほど)プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」を見た。演出はウディ・アレン、この名前で一気通貫の視聴となった。はじめてのオペラという「事件」である。
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1943年ジョージ・S・パットン・ジュニアがシチリアアメリカ第七軍を指揮していたとき、島の南部の都市アグリジェントの崩れた遺跡を見て、地元の専門家に「第七軍があの破壊を引き起こしたのじゃないだろうね?」と訊ねたところ、専門家は「いいえ、この前の戦争で、ああなったんです」と応じた。再度パットン将軍が「どんな戦争?」と質問すると「第二ポエニ戦争」との答えが返って来た。
ロバート・M・エドゼル『ミケランジェロ・プロジェクト』にあるエピソードで、シチリアにおいて第二次世界大戦ハンニバルが象を連れてアルプスを越えて以来の文化遺産の危機だった。

トマージ・ディ・ランペドゥーサ『山猫』(小林惺訳、岩波文庫)には「丘の斜面にしがみついている灌木の茂みは、古代の〈アメリカ〉たるシチリアに上陸した、フェニキアドーリアイオニアなどの人々が発見したときのままの錯綜した香りの集合体の中にあった」とある。
ハンニバルが、またフェニキアドーリアイオニアなどの人々が見たシチリアの姿を自分も見られるかもしれないと想像したり、ルキノ・ヴィスコンティ監督のイタリア統一時代を背景に貴族階級の落日を浮き彫りにした同名の映画を観たりしているうちに旅心は刺激されっぱなしでとうとう近く南イタリアを旅することとした。ここには先々の家計を考えるだけの賢さがない者がいる。