上野谷中の花の梢


「上野谷中の花の梢又いつかはと心細し」。
元禄二年三月二十七日(新暦一六八九年五月十六日)松尾芭蕉は江戸深川にあった芭蕉の草庵、採荼庵(さいとあん)から船に乗り千住で上がり、前途三千里のおもいを胸に抱いた。『奥の細道』の旅の出立であり、そのとき心に去来したのは上野谷中の桜花だった。
上野の花を見ながら『奥の細道』の冒頭にある芭蕉の花へのおもいを心に浮かべた。帰宅して加藤郁乎『江戸俳諧歳時記』を開くと「小僧きたり上野谷中の初桜」(素堂)が採られていた。ほぼ毎朝、不忍池、上野公園を走っていて、いまは小僧に代わって若いサラリーマン諸氏が宴席のブルーシートを確保する姿を目にする。
上野谷中とくれば花は桜となるが、昔は梅も多かったようで、おなじく『江戸俳諧歳時記』に「紅梅やとても日当り谷中道」(訥子)があり、上野のほうから日暮里へ抜けるのが谷中道、近くに「いろは茶屋」があり、東叡山あたりの坊主たちが通っていたと註釈がある。僧侶には色の道の通い路でもあったわけだ。
きょうは四月一日東日本大震災の年の三月末で退職したから、七年目の隠居生活のスタートである。