柳田格之進と武家のモラル

古今亭志ん朝『世の中ついでに生きてたい』(河出文庫)を読んだ。なかに志ん朝師匠と池田弥三郎先生との対談が収められていて、池田先生が志ん朝さんに「火事息子」で「いま通ったのだれだい」「酒屋のお父さんだよ」と言っていたと指摘すると師匠が「お恥ずかしいですな」と詫びる場面があった。
「火事息子」は江戸時代の話だから「お父さん」はないわけだが、たんなる「言いまつがい」でなかったとすれば、こうしたことが起こる背景に噺家として古典落語をすこしでも身近でわかりやすいものにしたいという意識があり思わず現代の話し言葉が口をついて出るのかもしれない。
久保田万太郎が昭和四年に発表した随筆「夏と町々」で、商家のおかみさんを奥さんと言った高座があるとたしなめている。万太郎は、噺とその背景となっている時代との関係に無頓着なのだと断じていて、正論ではあるが時代に附きすぎるとわかりにくくなるおそれがあるのが難儀だ。
    □
先日の日劇ミュージックホールOG会の事務局を担当されたK氏のおさそいで日暮里サニーホールでの「歌うサニーホール」という催しへ出かけ、会場で小浜奈々子さん、小鳩みきさんと合流した。
出演は荒川区のアマチュア合唱団で、ほとんどの曲を聴衆もいっしょになって歌う。こうしたたのしい形式のコンサートははじめてだった。ひぐらしの里ライヴ委員会と荒川区芸術文化振興財団による催しは今回で三十五回を数えていて、小鳩さんは長いあいだその世話役を務めている。

第一部は「夏の思い出」「小さい秋みつけた」「雪の降る町を」などで知られる中田喜直の歌、第二部は「たなばたさま」「銀色の道」「星に願いを」など星にちなむ歌で、第一部では中田喜直の父君である章が作曲した「早春賦」(作詞は吉丸一昌)も歌われた。この曲は「夏は来ぬ」とともに大好きな唱歌なのにはずかしい話で一番の歌詞だけしか覚えていない。今宵三番まで通して歌ったのを機にしっかり記憶しておこう。

「(一)春は名のみの風の寒さや 谷の鶯歌は思えど 時にあらずと声も立てず 時にあらずと声も立てず
 (二)氷解け去り葦は角ぐむ さては時ぞと思うあやにく 今日も昨日も雪の空 今日も昨日も雪の空
 (三)春と聞かねば知らでありしを 聞けば急かるる胸の思いを いかにせよとのこの頃か いかにせよとのこの頃か」

中田喜直の名前はたぶん子供のころにテレビで高英男が「雪の降る町を」(作詞は内村直也)を歌っているのを見て知ったと思う。その高英男と隣にいた小浜奈々子さんとはミュージックホールでおなじ舞台に立っている。
コンサートのあと日暮里駅前の飲み屋さんでK氏と一献傾けた。荒川区内のホールを会場としたイベントのあと、荒川区在住のK氏はバスで、文京区在住のわたしはあるいて帰宅したが、酔うとこれってなんか変だなと思えてくるのだった。
    □
イマジカBSのイタリア映画特集で放送のあった「ああ結婚」を再見した。ヴィットリオ・デ・シーカ監督、ソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニ主演、あの「ひまわり」の名トリオによる人情喜劇だ。
商売女と金持の御曹司が結婚にいたる二十数年の物語にはイタリア社会のさまざまな面がうかがえて興味深い。たとえば、女に三人の子供がいて、そのうちの一人の父親が自分、つまり跡取りがいると知ったときに男が見せた家系の存続にたいする強いこだわり。あるいは男の母親が亡くなったとき、同居して面倒をみてもらったにもかかわらず男は娼婦という前歴を知られるのを怖れて女を葬式の場に出さない。
この映画のソフィア・ローレンは十代から四十代までを演じ、演技の幅もコミカルからシリアスにわたっている。先年ナポリをバスで通りかかった折り、現地のガイドさんがソフィア・ローレンはここナポリの出身と誇らしげに語っていた。
ああ結婚」は1964年の公開だから1957年の「河の女」で国際的スターとなったソフィア・ローレンの円熟期の映画である。イタリアの国民的女優というにふさわしく演技力と迫力ある肢体に魅せられ、圧倒される。「旅情」のヴェネチアロケで、ハリウッドから凄い女優がやって来ると聞き心待ちにしていたところ、やって来たのはキャサリン・ヘプバーンだったのでヴェネチア人たちが「えっ!?」と首を傾げたという話がある。凄い女優のイメージとしてグラマーなソフィア・ローレンがあり、それとはおよそ異なるタイプの女優がやってきたのでギャップが生じたわけだ。
ソフィア・ローレンキャサリン・ヘプバーンを対にした話はたいへんよくできているけれど、おそらくゴシップだろう。というのも「旅情」は1955年の作品で、ソフィア・ローレンはデビューしてはいるものの「河の女」以前であり、まだキャサリン・ヘプバーンと比肩される「凄い女優」とは言い難い。

    □
茶店でミステリーをグイグイ読んだあと映画館へ行き、その夜はしみじみと旨い酒を口にする。老残の身のかけがえのないよろこび、ささやかな贅沢である。だから矢野誠一『劇場経由酒場行き』(幻戯書房)は映画館経由酒場行きにはことのほかうれしい書名でさっそく一読に及んだ。
矢野誠一三遊亭圓生についてその仕事先での急死を「兵士の戦死を思わせ感動的」と書いたところ、友人で演劇評論家尾崎宏次から「元兵士として言っておきたいが、兵士の戦死に感動的なものはありません」という葉書が届いたとあり、敗戦の日を前に思いを新たにした。葉書にはまた「戦死する」は英語で「be killed」と受身であることを重視したいとあった。
おなじく中村伸郎について役者にならなかったら小松製作所の役員などしていたかもしれない立場の人のようにも聞いたとしながら「新劇は、金に不自由しないやつか、不自由しても平気なやつがやるものが持論」で、それは岸田國士の言うアマチュアリズムの尊重につながったとその演劇観に触れている。中村伸郎の持論は新劇にとどまらず広く自由業や水商売にも当てはまるだろう。金に不自由し、なおかつ不自由だと平気でいられないわたしは真面目にお固く貧乏しながらサラリーマンをつづけるしかなかったと屈託を覚えつつ納得した。
    □
大店の萬屋で大枚が紛失する。主人の碁敵で浪人中の柳田格之進が対局中に盗んだと疑われる。娘の絹はそのままにしておけず、みずから吉原に身を売り、その金を父の弁償に充てた。さいわいにしてその後、柳田は藩への帰参が叶う。
いっぽう萬屋では金が見つかり、盗まれたと早とちりしていたとわかり柳田の身の潔白は証明される。それはめでたいのだが、せっかく高位で復権したのに柳田は娘の身請けをしていないところが不可解で、聞き手がモヤモヤした気持になるのは避けられない。
古今亭志ん生の「柳田格之進」では金が見つかったのを知った柳田が萬屋にたいし娘を苦界に沈めたその辛さを語る。そこで萬屋は吉原に身請けに走る。それほどの辛さなのにどうして柳田は早くに娘の身請けをしなかったのか釈然としない。
ここのところに不合理を覚えた志ん生の長男で、志ん朝の兄である金原亭馬生は、藩に帰参したのちすぐに身請けをしたが娘の恥じてやつれはてたありさまを毎日見る親の辛さを萬屋に言って聞かせるかたちに改変した。
志ん朝の「柳田格之進」は兄馬生ではなく父志ん生のスタイルを継いでいる。大須演芸場での高座を録音したCDでは「今だったら大変ですよ、ねえ、冗談じゃないわよ、チョーむかつく!ってなもんで」と娘の立場に則した言葉を入れている。父の噺を継ぎながらもこうした言葉を入れたところに、兄の馬生が改変した噺が気になっていたように聞こえる。
娘の身請けに向かわない柳田の態度は封建の世の武家のモラルに照らしてどうだったのだろうか。